[home] [back]

NHK「アインシュタイン・ロマン」(全6巻)


第1巻 「黄泉の時空から」  天才科学者の肖像
isbn 4-14-008768-4 C1342 1500円
著者 NHKアインシュタイン・プロジェクト


 1巻から。非常に乱暴に感想を述べていっていますけど、悪意はないのでお許しを。

序章 <知の冒険者>としての素顔


 職人とは、自分で決めることができ、自分を治めるころができるという自立的決定権を持つ。ヨーロッパ的なギルドという歴史があるから、職人というものにはけっこう権威がある。ここではアインシュタインの手という部分を象徴的に扱うことで、他の科学者との差別化と、ある種の権威を与えようとしているかに読める。こういう書き方、よくないよなあ。


第一章 永遠の子供


 P24で「あまりに権威を嫌った罰として、神様は私を一つの権威にした」とある。これも権威付けの例だ。本人の言葉である、つまりそういう事実であると編者は言うかもしれないが、どういう意図で引用されたのかは明白に思える。
 P31の「驚き」について。余談だけど、国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」を思い出すな。理想(馬鈴薯)か現実(牛肉)かと対立する2つの派閥の中で、主人公が、自分はどちらでもないといった時のことだ。もし読んでいない人があるなら、お勧めですぜ。古い作品というなかれ。出来れば10代の間に、すくなくとも20代の間に読んでほしいと思う作品の一つですから。
 P33あたりの学校が嫌いだったという話は納得。学校が嫌いだったというのには、理由は不必要に思える。好きだったという方が、私には特別な理由が必要だと思う。軍隊集団への嫌悪も、学校が嫌いだったのなら当然のことだろう。学校と軍隊は同じ系統に属するものだからだ。
 P40。「だから現代にいささかの責任もあるアインシュタインは、今も黄泉の国からこの現代をじっと見つめているに違いない。聖書や教典に書かれた神を信じなかった彼にとって、その神様が支配している天国や地獄に入れないことも明白な事実と言ってよいだろう。」とある。この言葉は、これから続く文章は科学とはなんの関係もないということ明言しているのだろう。なぜなら、もし聖書や教典に書かれたような神がいるなら、アインシュタインの考えには無関係に天国や地獄に彼を落とすだろうし、もし神がいないのであれば、今も黄泉の国にいることを事実と言う根拠が必要だ。根拠がないのであれば、ここでの事実は客観性のまったくない事実と言うことになる。

第二章 相対性理論への問い


 彼の像があちこちにあることが、P60、P61の写真でわかる。自分の偶像が作られるなんて、彼のもっとも嫌悪したことだと言うのに。作った奴の顔が見たいな、まったく。それを置こうと提案した奴こそ、地獄へいけってんだ。そういえば最近、彼の自筆の論文にえらく高値がついた。困ったことだ。もっとも、たしか彼は販売が目的で自筆論文を書いたことがあったと思う。なにかに金が必要だった時のことだ。チャリティーだったかな?
 P74ではロイヤルソサエティへの入会のことが書かれている。ニュートンこそ、おそらくは人類でもっとも偉大な科学者であったのだろうが、同時に魔術師であり、既得権を必死で守ろうとする悪魔だったんだがな。
 P76の見だし「粉砕されたニュートンの時計」という見出しは間違っている。決して粉砕されたわけではない。ニュートンの時計が少々狂うので、アインシュタインが調整したというのが本当のところだ。ニュートンは間違ってはいなかった。ただ、正確ではなかっただけだから。ニュートンがどんなに嫌な奴であったとしても、彼の業績がおとしめられていいはずはない。彼は人類史上最高の科学者の一人なんだから。
 どんな時計だって狂う。当たり前のことだ。アインシュタインの時計だって、狂うだろう。ここでもニュートンをおとしめてアインシュタインの権威付けが行われていると感じる。
 相対性理論については、略す。それを解説できるほどの力がないので。

第三章 自在なポップスター


 アインシュタインがいかに自由であったかが書かれている。だが、自由を権威と結びつけるなんて、この編者はなんて馬鹿げたことを試みているのだろう。アインシュタインは自由であった。誰もが自由にあこがれる。だからアインシュタインを崇拝せよというロジックが浮かんでくる。
 P111では、アインシュタインの特許申請の趣味について書かれている。「理論物理学者と特許の趣味は普通は結びつかないだろう」とあるが、そんなことはない。P81で名前が上げられている経済学者のケインズやサミュアルソンにしたって、実際に株の運用など経済行為をしているぐらいに、学者と実務は結びついていると考えるのが自然だ。カール・セイガンやフレッド・ホイルなんて天文学者はSF書いているし。SFを書いている科学者はそれほど多くはないが、結構いるぞ。フレッド・ホイルの学説はSFなのかまともな科学なのか判断がつかないぐらいだ(^_^)。「10月1日では遅すぎる」は最高だったよ。カール・セイガンの「コンタクト」も、本当は本心なのではないかと思ってしまう。
 それから、音楽について。死とはなにかと言う問いに対して、アインシュタインが「モーツアルトが聞けなくなること」と答えるくだりが、P125に書かれている。実は私は、モーツアルトが好きじゃない。何度聞いても、好きになれない。ついでだが、ベートーベンも好きじゃない。わずかに「田園」だけが聞ける。好きなのはドビュッシーとラベル、サティ、イベール、古いところではバッハ、ダウランドとか。特にバッハが好き。これがあれば十分。

第四章 ユダヤ人とヒットラー


 P138にある言葉。「私にとってはどんな人を殺すことでも殺人です」。彼は出来るだけ単純なロジックで物事を考えようとしていたのだから、彼の当然の帰結だろう。「あらゆるナショナリズムを拒否する」というのも当然だろう。なぜなら、民族に示される「血」というものには、論理がひとかけらもないからだ。そこにあるのは権威だけだ。因みに、家族もまた「血」である。糞くらえだ。たぶん、アインシュタインにとって、自分がユダヤ人であることも、どうでもいいことだったのだろう。だが、国家や民族からの無関係さが無責任に結びつけられがちになる点に困っていたのではないかと思われる。シオニズムへの加担はその反動なのかと思う。
 アインシュタインは、自分はどこそこの国の出身だとか言って誇る必要はなく、自分はノーベル章を貰ったと誇る必要はなく、こんなに金持ちだとか、こんなに男前だとか、あるいはケンカが強いとか威張ることも必要ではないのね。なぜなら、彼はアインシュタインだから。これは別に一つの権威なのではなくて、自分が唯一無二だということを正確に理解していたのだろうと思う。この点だけが、彼をして我々が見習わなければならないところだろうと思う。

第五章 神のパズルを解く


 ここでスピノザが出てくる。彼の決定論をアインシュタインは採択していたわけだ。だが、それは、量子力学の実際にはそぐわなかった。まったく、運が悪かったんだなあと思ってしまう。まあ、運の悪い科学者なら世の中には山ほどいるのだから、仕方がないな。
 最後の「<ゼロ・ビット>の精神」P200からの、彼が求めたものと仏教との類似性の話は行き過ぎの感じがする。だが、もし彼が本当に仏教の方へ傾倒していたならば、きっと仏教独特の時間論や因果論を見ていたことだろうと思う。さて、どうなっていたことか。

終章 黄泉の国への旅立ち


 アインシュタインの死は、犬や猫の死となんらかわるところはない。
 死ぬ時に成功か失敗かをなにで判断するかと聞かれて、失敗も成功もないと答えるくだりは凄いなあと感心する。
 ところで、この問いはエジソンの問題だなと思い出した。彼がアメリカでの 1929年におきた大恐慌の時にリンドバークとフォードとともに、設けた奨学金を受けるためのテスト。すぐに見つかったついでだから引用しておく(ディスクの中に残っていた)。

--------------------------------------------------------------
 エジソンの試験問題

1.もし1億円の遺産をもらったら、あなたはどのように使いますか?

2.「幸福、快楽、評判、名誉、愛情、金」の中で、あなたが自分
  の一生をかけたいと思うのはどれですか?

3.死に臨んで自分の一生を振り返ったときに、どういうことで
  もって一生が成功であったか失敗であったかと判定しますか?

4.どういう場合になら嘘をついてもよいと思いますか?
--------------------------------------------------------------
(「46億年の100大ニュース」渡辺健一著 扶桑社刊から引用)

 アインシュタインなら、あとの3つの質問にどのように答えるのだろうか。気になるね。

 さて、現在手もとにあるあとの2冊は、ささっと目を通したのだが、このような逐次メモを問っていくスタイルは無理なので、簡単に行くことにします。
 3巻の最後に、JIVEさんが以前紹介してくれていたエンデの言葉がありますね。


「アインシュタイン・ロマン」2〜4巻まで

2巻「考える+翔ぶ!」


 特別書くことはなにもないんだが、まあ、音楽について。
 ある程度音楽をやっていれば*1、楽譜に書き込みをするのは当たり前で、それも小節毎に細かくやってしまうことも珍しくはないと思ったりする。P112のあたりに書かれていることは、だからオーバーだなと思う。

*1
 「音楽をやっている」と言う表現は、間違っているかもしれない。だが演奏を趣味にする者にとっては、結構、音楽はスポーツだと感じることがある。冬に暖房のない部屋でギターを弾いていて、汗をかいたりするもんね。

3巻「光と闇の迷宮」


 量子力学が登場する。ミクロの世界の奇妙なふるまいとアインシュタインの挑戦が描かれているわけだ。
 P126にフォン・ノイマンが出てくる。この人も人間原理を言い始めていたんだった。実は私は、20世紀最大の天才はノイマンだったのではないかと思っている。
 P129。ルドルフ・パイエルスは、コンピュータは意識を持たないといっているけど、本当にそうなのかなと思う。注目するのは、「量子力学では『実在』にはあまり意味はない」という言葉だろう。アインシュタインは、月を見なければ月はないのかといったのだけど、パイエルスは、見ればあるんだからそれでいいだろう、と言うわけだ。これじゃあ、議論が噛みあわないはずだな。
 最後にエンデのコメントがある。しかし、その前置きが気に食わない。
 「アインシュタインの考えに共感するか、エンデの考えに共感するかは読者の自由である」P182
 なぜ、どちらかにしか共感しないようなニュアンスを混めた前置きをするのだろうか。どちらにも共感しない/することはあるのだから、二者択一的な前置きは不必要であるばかりか、有害であるとさえ言えるぞ。
 で、私はと言うと、エンデの言っていることがわからないのであった。う〜ん。なんのことを言っているのだろうか?
 これじゃあ「共感」以前だけど、どうも雰囲気は、科学を統合する哲学が必要だと考えているようなのかな。もともと哲学は総合科学だったわけだし*2、そういう意味では、昔を知れと言うスローガンともとれる。ま、先は後3冊あるのだから、焦らないでいこう。

*2
 昔は、モノはなにから出来ているのかとか、地球の大きさはどれくらいかという問題も哲学の領分だった。

4巻「悪魔の方程式」


 第3章にドゴン族の創世神話に触れている部分がありますが、これ、かなり信憑性の薄いものですので、ここで述べるのはどうかと思う。ここで述べるのであれば、その信憑性についても言及してほしかった。P61に、長老たちの言葉がのっている。「世界がなぜ、どうのようにしてはじまったのか? そのような難問を解決したと主張する人たちは次から次へとあらわれるだろう。しかしそのような人を簡単に信用してはならない。そのほとんどはウソである」P61
 これ、長老たち自身のことを言っているのだが、アインシュタイン・プロジェクトの編者には通じていないようだ。
 しかし、各地にある創世神話の多くに共通点、共通構造があるのは注目すべきかもしれない。人間の心の特性を知る手がかりがありそうだという意味においてだけど。
 P90に「人間原理」という言葉がやっと出てくる。
 P105にでてくるラビ・シャンカールのシタールの演奏は、非常にいい雰囲気があって、一人で考え事をしたい時にはいい。
 P125にブライアン・ジョセフソンが出てくる。この人、かなりだと思う。
 ジョセフソンの言葉を引用する。「私たちが宇宙とよんでいるものがあらわれるよりも前から、精神の特質が存在していて、空間と時間は、精神から作り出されたのです」P127。その精神はどういうものかと言う問いに対して「最高の存在です。最高の知性と言ってもいい」と答えている。
 なんだか私には、神という言葉を使わないせいで苦労しているとしか見えない。まあ、物理的な意味で用いたいので神とは言わないのだろうな。そして彼はその最高知性とコンタクトを取りたいがために瞑想をしているのだそうだ。うむむ。
 先日どこかの大学の卒業式に、科学を学んで空中浮遊を信じる*3なんてのは科学的精神を学んでいなかったということだというコメントを学長がしたと新聞に載っていたが、このジョセフソンの言葉をどう解釈するのだろうか興味があるな。空中浮遊なんてのは些末的なことで、確かに科学的な精神の方が重要だ。

*3
 もちろんオウムの信者になった人たちのことだ。

 さて、実は5,6巻もすでに読んだのだが、5巻は少々つらい内容だった。戦争について考えなければならないのだから。
 どうコメントしようかと迷っている。
 6巻については、エンデとの質疑応答があるので、感想は書きやすい。実はここまで読んでやっとエンデの言葉の意味がわかった。3巻の終わりではまだわからなかったのだが、まあ、なんとかわかったように思う。客観主観の意味と、科学が人間を殺すと言う意味も。だが、やはり変だという気がしてならない。
 読み違えをしていないかどうか、自信がないのでしばらく置くことにする。


「アインシュタイン・ロマン」第5巻


 最後に近づいてきた。5巻は、エンデさんの問題提議の核心に迫る部分だ。特にここでは「科学者の[犯す/犯した]罪」と言う、非常に重要なポイントが書かれている。

 とりあえず「罪」の定義を始めにしておく。ここでの「罪」は一般的な意味とはことなる。なぜなら、戦争で敵対国の人を殺すことは、普通は法律には触れないからだ。従って、科学者がどのような発明発見をしたにせよ、敵対国の不利になることであれば一般的には「罪」とは言わないだろう。
 ここでの罪とは、いわゆる道徳的倫理的ではない行為としておこう。あえて言えば、神様の定めるところに反する行為だ。そして、一般の人間ではなく、科学者の罪を考えるからには、悪なる事だけをなし善なる事をなし得ないものを発明発見することだろう。
 たとえば、ダイナマイトはどうか。ノーベルはこの発明が戦争に使われたことを悔いていたようだ。ノーベル賞の設立の動機にもなっている。だが、ダイナマイトがなければ多くの建設工事ができない。こないだの北海道のトンネル事故でも発破は威力を発揮した。結果は残念なものだったが、ダイナマイトがなければ、なにも出来ないのだ。つまり利用方法によっては、ダイナマイトは悪事だけなしえるわけではないということだ。従ってノーベルは無罪、となる。

 P14 から始まる節のタイトルは「アインシュタインは原爆を後悔したか?」となっている。5巻は、アインシュタインが後悔したのかしなかったのかを突き止めようという動機をもって始められたとも書いている。
 次の節のタイトルは「エンデは語る」だ。
 前の節を受け継いで、本当の問題点は、原爆を可能にした思考のかたちだと述べている。エンデのコメントは一貫してここに帰着する。感想は6巻を述べる時にする。
 さらに次の節は「パンドラの神話と現代科学」とある。朝永振一郎さんの言葉を引用している。「科学というものの中には、罰せられる要素があるのだ」とある。どうもこの編者は原爆を罪だといいたいようだ。だが、ちがうぞ。なにが違うのかは後でかく。

第一章 E=MC^2の神話


 E=MC^2というシンプルな式は、私も知っている。誰もが知っているだろう。この式が原爆を作ったのではないというのも知っている。原爆の可能性はマリー・キュリーの研究を受け継いだアーネスト・ラザフォードとフレデリック・ソディーの実験によってわかったのだったということが書かれている。

第二章 アインシュタインの平和運動


 『「化学戦」第一次世界対戦』という見出しの節が始めにある。フリッツ・ハーバーが登場する。彼こそが罪を犯した科学者だと思うのだが、どういうわけか本書では非常に軽く扱っている。なぜだろうか?
 ハーバーは、空中窒素固定法の研究によってノーベル賞を授賞する。この研究自体は善なる事にいくらでも応用が効く立派なものなのだが*4、彼はその前に軍に依頼されて毒ガスの研究をしている。
 なぜこれを罪だと私がいうのかといえば、毒ガスって、一体、人を殺す以外のなにに利用が出来るというのだ、という理由でだ。人を殺す以外、なにもないじゃないかよね。宇宙人というのは却下。
 そういえば、集英社のコミック「栄光なき天才たち」2巻にハーバーは登場する。この本のP125には、イギリス軍の偉い人が吐く、感動的な言葉がある。ハーバーは、空気から爆薬を作ったのだ。それに対しての言葉だ。「世界に冠たる我が大英帝国海軍が、たった一人の科学者に破れさるというのか!」
 まあ、ここまではいい。ここまではお互い様だ。だが、毒ガスは違う。これをお互い様だとしたら、人類は滅びてしまう。
 ハーバーがなぜ悪魔のようになってしまったのかといえば、動機はやはり愛国心なのだった。我々の誰もがどこかの国に属しているのだが、それ以前に人間であることを忘れるとこうなるのだろう。もっとも、こういう人はどこにでもいる。ハーバーだけじゃない。が、科学者の犯した罪と言えば、これを除くわけにはいかない。
 ただ、ハーバーは毒ガスを開発した後でノーベル賞を授賞している。これが私にはわからない。戦争はドイツの負けに終わったのだが、その時にハーバーの技術(食料生産のための肥料)が必要だったのもわかるが、なぜこのような悪事を見過ごすのか。まあ、考えられる理由は、対戦国も毒ガスを使ったからだというわけかな。
 ハーバーの罪はこれだけじゃない。彼は自分だけが悪事を働くのではなく、オットー・ハーンを言い包めて研究に参加させたりしている。ハーンは毒ガスが使用される現場にたち、自分のしていることの罪を十分に知って、精神異常をきたす。後に核分裂を発見したりしているのだが、広島に原爆が投下されたと知った時には自殺を企てたそうだ。言っておくが、彼が原爆を作ったのではない。核分裂を発見しただけだ。P71に書かれている。原爆を作ったどころか、この本には書かれていないが、ハーンは、原爆の開発依頼を断っているのだ。
 ハーバーを最大の罪人だと言わずして、誰を、あるいはなにを咎めようとするのかと、編者に聞くべきだろう。あるいは、エンデさんに聞くべきなのだろう。
 ちなみに、マイケル・ファラディーという科学者*5がいる。彼は19世紀のクリミア戦争の時に、イギリス政府から軍への協力を要請されたのだった。それは、毒ガスの大量生産は可能であるか、可能であるならこのプロジェクトの責任者にならないかというものだった。ファラディーの答えは、出来る、だが、自分はしない、というものだった。私は、彼が見栄を張って出来るといったわけじゃないと思う(^_^)。「アインシュタイン・ロマン」にもぜひ載せておくべき逸話だと思うがな。

*4
 星新一の「人民は弱し官吏は強し」にも登場するね。
*5
 私が自分で産まれて始めて買った本は「十五少年漂流記」だったが、二番目に買った本は「ロウソクの科学」だった。ファラディーの書いた本だ。岩波文庫の星一つだった。

 ハーバーは、しかし後に、愛していたドイツから逃げて出ることになる。ヒトラーが政権をとったからだ。ハーバーはユダヤ人だったんだな。なんとも皮肉なことだと思う。私には、ハーバーの当然の報いだという気がしないでもないが。
 しかし、P42にはハーバーを持ち上げて書いているな。
 「現在、ドイツではハーバーの復権がなされ(中略)ハーバーがいかに死の科学を研究しようと、ナチス以前のことだったからである」
 復権がなされているのは事実だろうし、その理由もそのとおりなのだろう。だが、そこまで書くのであれば、ナチス以前であろうが以後であろうが、死の科学を研究していたということの重要性をあわせて書いておくべきだろう。
 ハーバーを厳しく追求しない理由は、それをするとアインシュタイン追求の比重が薄くなってしまうからだと推測するが、なんともなあと、残念に思う。
 そうそう、ハーバーの脱出に手をかしたのがラザフォードだ。ラザフォードは多くのユダヤ人科学者を救い自ら出迎えたのだが、ハーバーとは握手すらしなかったという。こういう逸話も、「アインシュタイン・ロマン」には載せておいてほしいものだ。

 次に、アインシュタインとロマン・ロランとの出会いが書かれている。P44だ。
 始めロランはアインシュタインを尊敬していた。ドイツの学者はみな軍に協力しているが、アインシュタインだけは別だと言って。しかしそのアインシュタインも後に、がっかりすることになる。P69だ。ここは第三章ということで、次に行く。

第三章 ナチスと科学者
 アインシュタインは、戦争には良い戦争も悪い戦争もないと理解していた。それはまったく正しいのだが、ナチズムにだけはこの意見を覆してしまったのだった。先に書いたロランの失望は、このアインシュタインの豹変のせいだった。
 えーと、この章ではナチスがユダヤ人科学者を追放していったせいで、ナチスの研究が大幅に遅れたことが書かれている。本当に皮肉なことだが、お蔭で我々の誰もが助かったのだった。

第四章 大統領への手紙


 えーと、原爆のアイディアはレオ・シラードが考えたということが書かれてある。シラードはアインシュタインにこのアイディア(核連鎖反応)を話したところ、アインシュタインは「考えもしなかった」と驚いたという。P82。このことは覚えておくべきだろう。
 もう一つの覚えておくべきところは、P97だ。ここにはハイゼンベルクのサボタージュの可能性が書かれている。つまり、ドイツにおいても原爆は研究されていたのだが、その指揮者であるハイゼンベルクは、意図的にサボタージュしていたのか否かと言うことだ。
 技術的に進んでいたはずのドイツにおいて、なぜ原爆開発が遅れていたのか、それはわざとサボっていたのではないかということである。私はきっと、サボっていたのだろうと思う。
 さて、1945/05/07においてドイツは降伏した。これで原爆開発の必要性はなくなった。というのは、日本で原爆を開発している可能性はゼロだったのね。だが、実際には止まらなかった。ここにきて始めてシラードは人類にとっての危機を感じた。そしてシカゴにいる科学者を中心に署名を募り、大統領への勧告を行った。しかし、まったく問題にされなかった。大統領まで届かずに、国務長官が読んだせいだった。
 原爆が投下されたときのシラードの感想をこの本は書いていないが、彼はきっと悔やんだことだろう。
 アインシュタインは、嘆きの「オオ、ヴェー」という言葉を吐いたと言う。これは、たいした場合じゃなくても吐いてしまう言葉なのだとエンデは言う。
 そう、別にアインシュタインが自分の責任を感じなくてもいいんだと思う。彼の責任ではないことは、この本を追いかけていくだけでも明白だろう。

第五章 日本人への手紙


 篠原正瑛がアインシュタインと手紙のやりとりをした。篠原がアインシュタインを問い詰める。ついにアインシュタインはキレてしまう。私は、当然だと思う。アインシュタインにはなんら反省すべき点はないからだ。原爆投下について責任を問う篠原に対してアインシュタインの返事は、こうだ。「私はこの宿命的な決定を阻止すべくほとんどなにごとも出来ませんでした。−−日本人の朝鮮や中国での行為に対して、あなたが責任あるとされるのと同じほどに、少ししか出来なかったのです」
 しかしこの本の編者には通じていないようだ。P125には、この本の編者の解釈としてこうある。

「『恐怖の均衡』を肯定する思想の芽がアインシュタインの中にあったことは指摘しておかなければならない。」

 そうじゃないだろう。
 その思想はアインシュタインの中にあったのではなく、我々すべてにあるんじゃないのか。敵がナイフを持って襲ってくるからには、こっちもナイフを持たねばならないと言うのは、誰もが諒解していることだ。相手がナイフだったら、できればピストルがいい。相手がピストルなら、こちらはマシンガンがいいわけだ。いつでも相手を上回ることが出来ればいいのだ。こんなことを諒解していない奴は、平和にボケているんじゃないのか*6。ただ、原爆の場合は、原爆以上がまだ見つからないだけの話だ。

 ここでの最後のエンデの話は聞くに値する。
 強盗が自分のマンションに入ってきた時に警察を呼ぼうとするだろう、つまり、暴力に対して別な暴力で対抗するわけだ、と書いている。P127。ここでの指摘は、我々の誰もが忘れがちなことで、かつ重要なことだ。つまり、国家とは暴力組織であるということだ。これに比べれば、いかなる暴力団もメじゃないぜ。
 しかし最後のまとめは、こうだ。「アインシュタインの素朴な絶対的価値観の信奉、それはまたアインシュタインの科学に対する考え方と通じている」
 このあたりでも、実は私は腹が立った。
 アインシュタインはただの科学者であって、宗教家でも政治家でもなんでもない、それをああだこうだと彼の業績上の尊敬に値することや発想法などを書き並べて、そして、突き落とすのか、と。
 しかし、腹立ちを押さえて、エンデさんの矛盾を指摘するために、材料を一つ引用しておく。
 エンデさんは、こう言っているらしい。

「政治・軍事上ではどちらが正当な暴力であるかは決して自明のこととして決定出来ない」

 矛盾の指摘は次に。
 であれば、以前エンデさんの発言にあった倫理マシーンは、決して機能し得ないということになるではないか。機能し得ないものを夢想するのは、

*6
 一応言っておくけど、だからこそ私は、軍隊を持たないと言う日本国憲法は立派だと思う。自分は思想のためには死んでもいいと言う覚悟が見えるからだ。戦争放棄も見事だと思う。こんなこと言えないよ、普通はね。

第六章 現代の科学、理想から遠く


 扉には「アインシュタインが抱いていた科学の理想は原爆に打ち砕かれた」とある。もう、たいがいにしたらどうだと思う。いくら編者が修辞に優れいてるとしても、使い方を誤っていたんでは、本書のテーマに疑いが生じる。
 アインシュタインの理想は原爆程度では砕かれることはない。毒ガスになら冒されることはあるかもしれないと思うが。しかし、原爆はただの爆薬の延長にあるのだから。
 原爆研究のお蔭でどれだけ物理学が発展したことか。毒ガスと原爆の差をよく考えてみればわかるだろうに。

 本文だが、えーと、ニュートンがジョナサン・スウィフトに皮肉られていることがP134に書かれている。ニュートンはもちろん偉大な科学者であるが、人間的にはこんなものだというわけだ。
 P155にはデータ捏造事件なんてのもある。こういう事例は、実際にいくらでもある。なぜなら、科学者も普通の人間なんだからね。
 で、章末のエンデさんのコメントだが、これは納得がいかない。彼は、倫理マシーンがあればと空想するのだ。
 そのマシーンとは、人間の資質を判定して、悪事をなしそうな人には使えないようにする回路なのだ。
 しかし思い出していただきたい。彼は、こう言っている(らしい)。

「政治・軍事上ではどちらが正当な暴力であるかは決して
 自明のこととして決定出来ない」

 つまり、倫理マシーンは、決して機能し得ないということになるではないか。これは矛盾ではないのか。
 こんな回路は幸い作ることが出来ないが、この提案の唾棄すべき点は、詳しくは6巻で述べることにする。

第七章 科学はどこへ行くのか


 アインシュタインは「世界政府」を考えていたとのことだ。うう、「沈黙の艦隊」*7だなあ(^_^)。
 アインシュタインはバートランド・ラッセルの宣言に全面的に賛成した。P169。その宣言というのがぶっ飛んでいて、世界が一つにならなければいけないというしろものだった。つまり、世界政府だ。アインシュタインはもちろんその宣言に署名した。そして後で死んだのだった。
 アインシュタインのような人にとっては、この思想はシンプルで美しく思えたことだろう。死ぬ前にラッセルの宣言を読めて、幸せだったと思う。
 他にも細かく大切なことがいくつか書かれているが、おいておく。

*7
 いわずとしれた「沈黙の艦隊」かわぐちかいじ著だ。あのポール・ボネが認めた唯一のコミックだ(^_^)。

終章


 P180にあるように、アインシュタインは晩年、孤独だったのだろうか。いや、そうではあるまい。なぜなら、ラッセルが宣言に署名をと頼みにくるくらいなのだから。アインシュタインの晩年は、死ぬのを受容する態度だったのだと思う。
 ま、別にいいか。
 ここでのエンデさんのコメントは、こうだ。

 「アインシュタインはその科学的世界像で、人間に自由がないことを明言しています。人間とは完全に決定された存在であり、価値観などは迷いだとするのです。しかし私人としてのアインシュタインは平和運動に積極的に関わり、文化を通じて人間を絶えず高めようとしてきました。ここに永久に解けない矛盾があることに彼自身気づかないのです」

 これはエンデさんの誤りだろう。
 科学的に決定していることが証明されたとしても、結果がわからない以上は決定していないのと同じなのだ。
 もし将棋や囲碁で、先手必勝、あるいは後手必勝と言うパターンが発見されれば、プロの棋士という存在はなくなるだろう*8。価値がないからだ。棋士たちは、勝つか負けるかわからないからこそ、一生をかけて戦うわけだ。
 しかし、我々の生活の結果はどこにある? 決定されているとしても、それを知り得ない以上は決定されていないのと同じなのだ。誰かが、明日のお前の行動だと悪魔のテレビで見せつけられたりしたら、そしてそこから逃れることが出来ないのだとしたら、たしかに人の行動には価値がなくなるだろう。人を殺そうと人助けをしようと、石が坂道を転げるのとおなじ物理現象なのだからね。とはいうものの、どこからどこまでもプログラムされた通りに動くのだから、すごいストレスが溜まるだろうな。
 幸い、決定論は誤っていたといえるので、もう遠慮などいらない。我々は自分で自分に価値を与える、作ることが出来ると言えるのだから。
 ともあれ、人間の一生が決定していようとも、その結果が悲惨であれ幸福であれ、つまり、どうあれ懸命に生きることには意義がある。
 実際、アインシュタインの決定論は思想上の中心テーマでありはするが、実生活では誠実に真摯に生きていた。
 これを矛盾だと考えるのは、そう考える者が誤っている証拠だと私には思える。

 価値観云々に至っては、エンデさんの誤解というしかない。科学的な結果について言うならば、それには価値などないのだ。これは仏教的な空の精神と同じだ。たとえば、アインシュタインの公式にも価値などない。幼稚園児がもてあそんでもなんにもならないし、そもそももてあそぶことは不可能だが、政治家がもてあそべば、誰かに爆弾を作らせてしまうことができる。ということは、もてあそばれた公式にその力があるのではなく、弄ぶ者にその力があることになるではないか。
 ここに一万円の紙幣がある。これは、日本であっても、価値がない場合があるのだ。山で遭難した時目の前に一万円札が1000枚あるのと、100円のチョコレートが一枚あるのと、どちらに価値があるかと問えばわかるだろう。誰がどのようにして、どういう状況でというのを抜きにしては価値云々を言えないのだから、科学には価値がないと考えるべきだろう。
 もちろん、どんな状況でも一万円札が 1000枚のほうがいいという奴はいるが。だから、わざわざ仏教では無常を説くのだろうが。

 しかしまあ、P186にもあるが、エンデさんがどう考えようと、それにもかからわず希望があるんだから、まあ、いいか。
 もちろん私が間違っているかもしれない。それは十分にあり得ることだ。だが、それでも希望はあるんだから、まあ、いいか(^_^)。
 てことで、いよいよ6巻にはいる。

*8
 たとえそうであれ、価値はあると言う人もいる。ニーチェなどだ。なにかに価値というものがあるなら、それにもあるというわけだ。


「アインシュタイン・ロマン」第6巻
 この巻のサブタイトルは「エンデの文明砂漠」です。いよいよエンデさんの考えそのものを私が考えるところになります。

 で、ここまで読んできての一番の疑問は、エンデの思想を表すのになぜアインシュタインを引きあいに出す必要があったのかということです。
 対比させるのに調度よかったと言うのであれば、それは納得なんですが、実際には対比させるのに調度いいという部分はない。ましてや、相対論を解説する必要など、全然ない。
 NHKの企画に疑問があるけど、しかしエンデさんはこの企画を受け入れたのです。その趣旨は、P4にあります。

 「私が興味をもっているのは、我々の自然科学的思考の問題点はどこにあ
  るのかを、アインシュタインを例に取りながら解明することなのです。ア
  インシュタインを手がかりに、また彼の生涯に目を向けることによって、
  われわれのもっている自然科学的世界像の中にある問題点を示すことが出
  来ると思うのです。(中略)アインシュタインをまつりあげることではあ
  りません。」

 しかし、振り返ってみて、アインシュタインの生涯やそれを取り巻く歴史を見て、問題点は抽出出来たでしょうか?

 私が1〜5巻までを読んで感じたのは、この本で抽出出来たのはNHKの編者スタッフとエンデさんのアインシュタインに対する誤解です。NHKの編者スタッフはエンデさんの言葉とは裏腹にアインシュタインをまつりあげようとしていたし、エンデさんは科学上の悪徳を見誤っているしね。
 たしかにいくつかの問題点は見えます。が、それはアインシュタインを例にとったからこそ見える問題点ではなく、彼がいようがいまいが、我々の歴史に普遍的に存在する問題点なんですね。それをより明確にするのが、この 6巻なわけで。
 どこにスポットをあてても現れる問題点ではあるが、あえてアインシュタインにあてる必要はない。たまたまあてたのだと言うのであれば、それは私も納得出来るのですけど、この本ではそういう書き方はされていない。

 ということで、次のメッセージから内容に入っていきます。

追補
 もちろん私が読み間違えている可能性は大です。どちらかというと、間違えていないはずがないと思う。なぜなら、私は今まで間違い続けてきたし、これからも間違え続けるるだろうからです。したがって、このメッセージが間違えていないはずはないと思う。
 しかし今現在、私が書けるのは、私が今現在こう考えているということだけなのだから、間違えていようが、そう書くしかない。こういうのを、「恥をかく」と言うわけですけど、別にいいんだ(^_^)。今までだって恥をかいてきたのだしこれからも恥をかくのだから、今だけは恥をかきたくないなんて言わないぞ。

 そういうことですので、ぜひとも、私の誤りを教えてください。>ALL

第一章 時間の戦争がはじまっている


 エンデは時間の戦争が始まっているといっている。第三次世界大戦だ。
 解釈の問題だから、世界大戦でもいいと思う。というよりも、ここでの指摘は非常にもっともである。
 オゾン層破壊など、ゆったりと押し寄せる危機に対して時間戦争というネーミングはかなりふさわしいだろう。この手の危機は対数的に増えるので、目に見えた時には手遅れなのももっともだ。困ったことだと思う。
 なぜ対処出来ないのか、という疑問に対して、P16でコストの問題を上げているのももっともだ。私もそう思う。私がこの科学技術ボードに書いた#283あたりのオウム関連から科学技術についての危惧はエンデさんと同じものだと思う。
 なぜ冷蔵庫を壊す時にフロンが大気へ逃げるにまかせるのかということは、逃がさないようにすればコストがあわないからなわけだ。
 資本主義の立場から言えば、であれば冷蔵庫の価格を上げればいいのだが、自由競争がそれを許さない。つまり、我々は自分で自分の首をゆっくりと締め上げていっているわけだ。この認識は正しいはずだ。

 どうしたら停戦に持ち込めるかという問いは、あって当然だろう。それに対してエンデさんは「最終的な答えを出せる人は、今のところ、まだ一人もいないでしょう」 (P17)と言っている。
 実際には、経済を停滞させてかつ豊かな社会を目指す方法はないのかということ、これなんだなあ、難しいのは。
 ありえるとしたら、とことん人口を減らしていくこと、かな。今思いつくのは。人口を減らしていき、それによって人類の貯金を食い潰していく方法だ。ただ、この方法も実際には先が見えているのだが。

 しかしこの部分はクレームをつけよう。P25の冒頭だ。

「科学者は自分の行った発見の帰結に関して、個人として全面的に責任を
 感じるべきだということです。」

 これは、とんでもない話ではないだろうか。世の中には豆腐の角に頭をぶつけて死ぬ奴がいくらでもいるのだ。豆腐屋が、レストランが、食堂が、スーパーマーケットが責任を感じなければならないとでも言うのか。
 ま、これは極論ね。彼は流通業者の責任や製造者責任を問うているのではなく、開発者責任を問うているのだな。そのように解釈しておく。
 しかし、それも違うのではないか。
 もしエンデの言う通りであれば、火を人類にもたらしたプロメテウスは、どれだけ責任を問われることになるのだろうか。いや、自分で責任を感じなければならないのだろうか。人類の被った悲劇はすべて火によってもたらされたと言っていいだろうからね。しかし私だったら、たとえ自分の起こした火によって滅ぼうとも、プロメテウスに感謝こそすれ、プロメテウスに責任を問うつもりはない。
 自分自身の責任の所在を明らかにせずして、時間戦争に勝ち残れるとでも思っているのかな、エンデさんは?

 私の書いた文章は、いったんボードに記録されれば、誰もが自由に読むことが出来る。どのように解釈されても仕方がないと思っている。私の責任は出来るだけ誤解のない文章を書くことだが、それには限界がある。誤解されていると思った場合は、普通は言い訳するのだが、それにも限界がある。誤解されていることがわからない場合は、言い訳も出来ない。というわけで、どのように解釈されても仕方がない。そこから先は、幸運を祈るばかりだ。だから私は、他人の書いた文章も誤解しないように注意して読んでいるつもりだし。でも、それにも限界があって、どうしても誤解してしまう。これは仕方がないよなあと思ったりする。
 それと同じように、発明発見されたしろもがどのように用いられようとも、開発した科学者の責任と言えるのか? 私なら、たとえ世の中の多くの人がナイフで怪我をしようとも、変態が幼児をナイフで切り刻もうとも、ナイフを発明した人に感謝するぞ。始めは石でナイフを作った人にだ。どこの誰だかは知らないけれども。船で多くの人が死のうとも、手作りの船で海に出ていった人を尊敬するぞ。いつの人だか知らないけれども。戦争でどれだけの被害を人類に与えたかわからない飛行機ではあるが、飛行機で空を飛んだライト兄弟を尊敬するぞ。
 だから、アインシュタインを尊敬するぞ。

 P25の節末尾では、最後の部分に「科学者ははっきりと公言する義務を第一におっているのです」とある。これも、そうじゃないだろう。科学者の義務は研究であり、それが善なるものか悪なるものか、科学者自身に問うのは間違っている。こんなことは、使う人間が判断すべきものだ。いきなりナイフの刃をさわって怪我をする奴がいれば、そいつがボケているだけだ。恐れを知らないからだ。
 従って、原爆については、誰もが使えるというしろものではないから、責任を追求すべきは政治家に対してだ。

 章末のセント・フランシスコの逸話は、私も好き。たとえ世界が終末を迎えようとも、いつもと同じように人参を畑に植えるだろうというフランシスコ。
 ここには二つの教訓があると思う。
 一つは、世界の終末にも未来を忘れないこと。もう一つは、そのような状況でも理性を失わないこと。
 どのような状況でも自分は自分を失わないだろうというのが本当の楽観主義者だろうな。

 第二章 エッセイ「文明砂漠」


 まずは全体に対しての感想だが、一言で言えば、エンデさんの言われていることは「昔はよかった」式の繰り言ではないのかというものだ。
 P40 には、人間が物質的な存在であることが書かれ、それが荒れ果てた観念構造である旨が書かれている。

「蛋白質の小さな粒が、偶然宇宙線の影響で分裂成長を始め(中略)自
 然淘汰の頂点へ到達した−−それが大学教授だ! そして、それまで
 誤って人間の魂と信じられていたもの、自由や知性や責任や愛や想像
 力やユーモアや人間の尊厳といった思想は、すべてただの幻想に過ぎ
 なくなった。」P40

 人間の魂が幻想であることは賛成だが、それによって愛や知性がおとしめられるとは思えない。魂を愛や自由や知性の総称としておくが、それらが幻想であってなにが悪い? 人間の頭の中がゼンマイ仕掛であろうと、それにもかかわらず幻想を持てる人間は尊い。同じゼンマイ仕掛であろうと、犬や猫との違いはここだと思う。犬や猫には犬や猫の魂があり、人間には人間の魂がある。ほんのちょっとした違いに過ぎないが、その違いは私には大きい。
 いったい、エンデさんが「荒れ果てた」というのは、なぜなんだろうな?

「だが、唯一幸福を約束する科学的啓蒙界のきわめて乱暴な宣教師でさ
 えも、このような観念世界では子供たちは生きて行けない、息が出来
 ない、成長できないということをなんとなく感じてきているようだ」

 子供の問題は確かにあるし原因を環境に求めるのもいいけど、性急に過ぎるのではないかな。それよりも私が感じるのは、エンデさんこそ、エンデ教とでもいうべき思想の乱暴な宣教師に見える。かつてキリスト教の宣教師がどれほど乱暴に人間の魂と神の愛を説いて回ったかを、ついつい思い出してしまう。
 私の印象は、次のようなエンデさんの描写による。

「お月さまなどは存在せず、あるのはただ、数学法則に従って軌道を巡
 るだけの、意味もない、燃えかすと塵からできた塊に過ぎない、と。
 笑いかけるお日さまもなく、あるのはただ、終わりのない核反応によ
 り想像を絶するようなエネルギー量を意味もなく空虚な宇宙に放出しているガス球なのだ」

 いわゆる科学的な認識がエンデさんの言うようなものではないことは確かだ。そもそもエンデさんも言っていたではないか。科学は存在に意味を求めないと。存在論的な「意味」は対象外なのだ。従って化学的な認識には「意味もない」などという修辞は実は間違っているし、もちろん、お日様の核反応にに終わりはないなどと考えてはいない。終わることはほぼ間違いなく決まっていることなのだ。生きて確かめることが誰にも出来ないのだが。ま、これは重箱の隅ね。

 このような科学的認識のために傷つく子供がいるという可能性は果たしてあるのか? その方が私には疑問だが、どうなんだろう?
 いてもおかしくないが、それはそもそも、子供が一様ではなく多様な存在であることの証明に過ぎないのではないのかな。つまり、科学によって傷つく子供もいれば、喜ぶ子供もいるってことだ。エンデさんの観点は一方的に過ぎると私は思う。
 その象徴的な意見が次にある。P43では、ゲーテの「ファウスト」をあげ、これが現代に書かれたものであればこれほど評価されるだろうかとエンデさんは「真面目」に考える。理由は「科学によって啓蒙された人間なら誰でも悪魔なんて存在しないことを知っている」からだというのだ。しかし、私は評価されると思うぞ。なぜなら、本の5巻P124にも登場するジョセフソンさんを思い出してみればいい。彼は最高知性の存在を確信していたではないか。我々はどうしたって、存在の根本に、未知なるものへの畏敬をもっているのだから。
 それどころか、P45にあるような「倫理、道徳、ヒューマニズムだって?(中略)このような概念は主観的で、だからまやかしの価値であり、客観的には全然存在しないと聞かされたばかりではないか?」という言葉はどこから出てくるのか疑問だ。
 上の発言を補強する意味でエンデさんは分裂症の大学教授の例を上げるのだが、困ったことに適切とは言い難い。

 エンデさんは「我々の宗教はポエジーという名である」と述べている。別に結構だと思う。私だって悪魔を描くが*9、もしかするとエンデさんと同類かもしれないのだ*10。その気になれば月にいる兎を主人公にして物語を作ることも出来る。だが、実際に月に兎がいるとは思わない。これは別に矛盾じゃない。なぜなら、もし本気で月に兎がいると信じるのであれば、ベルヌの「月世界旅行」に苦情をつけることになるのだし、その意味で多くの童話作家を敵に回すことになるのだ。これでは折角ポエジー教信者であっても、エンデさんのいう科学的認識論者と同じような偏狭さを持つことになるのではないだろうか。
 逆に私は月を科学的認識の対象としてみているので、月に兎を住まわせることも出来るし、誰かが女性の横顔に見えると言えば、賛成することも出来るのだ。

*9
 2月にも悪魔が準主役になるポエジーを書いたところだ。 MMBUNKO を参照のこと。

*10
 量と質が違うというなかれ(;_;)。私はこれで飯を食っているわけじゃないんだし。


 第三章 心の中に砂漠がある
 砂漠化現象はあると私も思う。NHK側の人の「私たちの大多数は(中略)感じていないと思います」という言葉は、ちょっと疑問。そうなのかなあ?
 たとえば、スーパーマーケットに行けば、こんな風景を見ることができる。それは、主婦の買い物だ。
 多くの主婦は豆腐、牛乳など日付がついている製品であればチェックをして買い物をする。そして、棚の奥から出来るだけ新しい品物を取り出すのだ。
 結果的には、かならず取り残される製品ができる。その製品は食物であるにもかかわらず人の口の中へではなく、ごみ箱へ捨てられるのだ。*11
 もちろん、新しい製品を選ぶという行為は決して責められるものではなく、むしろ台所をあずかる主婦や主夫であれば、望ましいとさえ言える。というのは、それを食する家庭内メンバーの健康管理につながるのであるから。
 だが、結果的に、かならず捨てられる製品が登場する現実は一体どう解決出来るのだろうか。
 企業ではこのような製品が登場することを見積もって、製品の価格を設定るしている。これは企業として当然だ。従って、誰も損はしていない。購入者は捨てられる製品があることで新しい製品を選ぶことが出来るし、企業はそれによって損益を出すこともないのだから。
 だが、これが当たり前のことだといえるだろうか。当たり前のことだと思えるのであれば、そう思う心は砂漠なのだろうなと思う。といいながら、私には解決出来ないのだけど。

*11
 まあ、これはこれでホームレスが食べている場合もあるのだが、そんなケースは非常に少ない。

 また「自然に対するこの高貴な態度、少なくともていねいな態度を近代的な人間はまったく失ってしまったのです」P57というくだりも賛成だ。母なる大地に穴を穿つなんてとんでもないと考えていたアメリカ大陸原住民のことをずっと前に書いたことがあるけど、まったくそのとおりだと思う。海を埋め立てたり山を削ったり、どうしてこんなことをと思ってしまう。
 しかしまあ、答えはわかっているのだ。それは、そうしなければ多くの人を養えないからだ。埋め立て地だといわれる部分をすべて海に戻せば、たとえば私の今住んでいる場所も海だったのではないかな? 大阪や東京の大部分は海だったのだからな。
 その一方で、本当はこんなことをしなくても、人間は十分に生活出来るのではないだろうかと思う気持ちもある。どうしてこんなことになっているのかといえば、そりゃ金になるからだろうと思う気持ちがある。
 本当のところは、厳しくチェックしていかなければわからない。母なる大地に傷をつけることが人間に絶対に必要だったのか、それとも、必要ではなかったのかを。でも、どうやって振り分ければいいのか、私にはわからない。
 映画の「フィールドオブドリーム」で、休場を売れと言う主人公の配偶者の兄と主人公の配偶者の女性の意見の対立を思い出すが、あの兄の言い分は、決して無茶じゃない。と書けば、あの映画もまた、同じ問題意識を持っていたわけだなと納得する。

 さて、この章で一番大きな問題が最後にある。科学の発展についてのエンデさんの考えだ。
 彼は、こう言っている

 「自然の中にある、精神的認識を目指す自然学は、原子爆弾をもたらさない。
  現代社会でわれわれがもつ、さまざまな化学工業をもたらしません」 P75

 結論として、彼は人間の知性を追い越す科学を懸念しているのだろう。それは、私も同じように思わないでもない。学者ではなく、賢人を目指すべきだと言うわけだ。*12
 でも、彼の考えは根底に哲人政治を目指すようなところがある。例の倫理マシーンがいい例だ。これ、ファシズムだと思うが、彼はファシズムどう考えているのだろうか。
 この全巻には、アインシュタインへの批判は見られても、ハーバーへの批判はないし、まして政治家(特にヒトラー)への批判もない。つまり、ファシズムは内容によっては見直されてもいいとでも考えているのだろうか。
 この疑問が解けない限り、エンデさんの話は納得出来ない。
 私は、自殺を認める人間だから、社会の自殺も当然ありだと思っているのだから。社会が社会の崩壊を望むのであれば、また、人類が人類の種の断絶を望むのであれば、それもありと言うわけだ。たぶん、エンデさんは、この意見には反対だろうな。

*12
 北杜夫の「南太平洋ひるね旅」だったかに、学者ではなく賢人を目指すと言う子供が登場するね。同著者による「船乗りクプクプの冒険」もエンデさんと同じ趣旨が見られる。

 第四章 科学という現代神話


 ここでのエンデさんの主張は、科学で調査出来ることは、所詮科学で調査出来る範囲にすぎない、ということだと思えます。これはもちろん正しいです。

 しかし、一体誰が、科学で調査出来ることがこの世のすべてであると述べたのか、これが非常に疑問で。あ、考えてみれば、結構いるか(^_^)。
 ですが、科学では、科学が万能であるという証明はなされていません。科学で調査出来ることがすべてであると、科学では証明出来ていないのですね。なぜなら、「見えないモノは見えない」とするのが科学なのですから。「見えないモノはない」とするのは、科学ではないでしょう。見えないからないはずだという奴は地雷を踏んで爆死するのがオチです。そういう爆死をした科学者も大勢います。アインシュタインも、考えようによっては爆死した一人かもしれません。
 なぜ爆死するのか、というと、それは自分の直感を信じたからでしょう。直感は科学ではありませんから。大切ではあるんですけれども。

 しかし、エンデさんの理屈の持っていきようは、誤っていると思います。
 たとえば、P78の言葉。マルクス、フロイト、ダーウィン、アインシュタインが物質主義的思考の象徴だと述べたあとでの言葉です。

 「私は事実、ダーウィンの考えの延長から、特にヘッケルが定義した理論より
  レーシズム、すなわち人種主義・人種差別が生まれたのだと思っています」

 この言葉への疑問は、「事実」とはなにを指しているのかということです。
 言葉の結びを見ても明らかなように、ここでは彼の考えが述べられています。であれば「事実」とはなにか?
 彼がそう思っているのが「事実」であるということなのでしょうか? でも、普通はこういう場合には「事実」とは言いません。おそらくここでの用法は、彼の考えの延長の上でこそ成り立つのでしょう。つまり、心の中も外も、事実は事実ということです。
 ですが、一般的には、心の中の出来事は「事実」とは言いません。ここでこのような使われ方をしては、ダーウィンが人種差別の基板を作ったと誤解されるかもしれないほど危険なことなのです。
 p79では、その考えの延長が書かれています。

 「アインシュタインの物理学が原子爆弾につながるのは偶然ではなく、根拠が
  ないわけでもありません。それはその物理学が人間を世界からなくすように
  思考するものだからで、人間をなくすように思考し始めると、その帰結は人
  間を文字どおり排除するのです。」p79

 ここには論理の飛躍が見られます。それがひと目でわかるような同じような飛躍した論理を作ろうと思ったのですが、あまりいい例が出来ませんでした。が、折角ですので一つだけ提示しておきます。

 「くそガキは女遊びをしてはならない。従って、くそガキは女が嫌いになる」
 くそガキというのはもちろん男子を指して言います。女子はけっしてくそガキではありませんからね(^_^)。この例を見れば、けっして言葉どおりにはならないことがわかるでしょう。まあ、中にはホモセクシャルに目覚める人もいるにはいるが、そりゃもともとそういう素養があればこそではないでしょうか。毒ガスを作ったハーバーのように、人を殺すことをためらわない奴はどこにでもいますから。当然、科学者の中にもいるということです。

 というところで一言だけにこだわっていては進まないので、大枠も述べておきます。東西南北をマルクス、フロイト、ダーウィン、アインシュタインと呼んでいるのは文明砂漠民だとp33のエッセイで述べていますが、p78では、自分の考えで彼らを象徴としてあげていると述べています。ここ、変じゃないですか?
 しかし、どのように変であるかを言っていくと長くなるし、面倒なので、指摘だけにとどめておきます。もっと大きな問題があるし。

 さて、もっと大きな問題です。客観性と主観性についてです。p79〜80に書かれているのですが、多くの問題が短くまとめられすぎているので、とりあえず一点だけ。

 「自然科学的思考は、質に属するものは排除しています」p80

 う〜ん。
 モノを計るのに質量と重量という2つの観点があります。有名なナゾナゾで、綿 1kg重と鉄 1kg重のどちらが重いか、という問題もありますね。答えは、同じ重さです。つまり重量を計っていっているわけですよね。これは質量ではありません。なぜなら、重量は計る状況で変化するからです。天秤で計れば厳密だというわけにはいかないのです。同じ質量であっても、比重の異なるものは真空中でしか、釣合が取れません。たとえば、発泡スチロウール10kg重と10円玉では、普通は10kg重の方が重いのですが、水の中では10円玉の方が重いのです。
 また、上から落ちてきて当たった場合、どちらが痛いか、となると、もちろん、綿よりも鉄の方が痛いでしょう。ここでは固さが問題になります。
 ですから、空気中か水中かという状況を排除して計ったものが質量とよばれているし、痛さを計るためには硬度を計算にいれなければならないと考えるわけです。
 科学では質量も重量も、どちらも扱います。現在では「痛さ」も科学に含まれているはずです。

 で、考えついたのが、翻訳が悪いのだろうかということです。エンデさんの言っていた言葉、「質」でいいのかな? 批判をするには疑問が多すぎる。う〜ん。


 第四章 科学という現代神話 の2
 どうも長くなってしまうのではしょりぎりに行かなければなと反省している今日この頃ですが、文句は、言いたい時に言わねばならないし、困ったものだと思っておりますm(__)m。しかし、今回はすでに書いてしまったのですが、次回はそろそろ終わりにすることも考えています。

 さて、p82には、宗教的な定義の魂を信じる一方で、その存在を否定する大脳生理学者のことが書かれています。以前にも出てきた大学教授です。学校では宗教的な魂を否定し、日曜日には教会に通う彼を、エンデさんはおかしいと取り上げているわけです。

 「教授に言わせれば、一方は科学であり、他方は人生の英知なのです。しかし、
  これはとても奇妙なことです。こんなことでは、私たちはやっていけません。」
  p83

 確かにおかしい。けど、エンデさんもおかしい。なぜ教授の、職場と私生活という状況に応じたそれぞれの態度を一元的にとらえなければならないのでしょうか。

 私がその教授をおかしいと思うのは、宗教的な魂をないと断定する態度に対してです。人には魂がないという証明はまだない。従って、生徒には、ないと教えるべできではない。自分の考えを押し付けていいわけがない。自分はないと思うが、あるという考え方もあると教えるべきだしね。科学的な態度というのは、そういうものだと思います。
 それから、エンデさんをおかしいと思う理由は、誰にしても状況に応じた態度があるのだから、それを否定するなら、その否定はエンデさん自身にも返ってくるのだということを忘れているということです。
 つまり、科学のある種の面を否定するのであれば、たとえば、電気を使わない、ガス水道を使わない、飛行機に乗らない、というような、俗にいう現代文明を否定する態度がエンデさんにも求められるということです。写真で見るかぎりエンデさんの住居は、日本風のレイアウトやインテリアが施されています。これらがどのような手段でエンデさんのモノになったかを考えれば、エンデさんの態度は私から見れば、とても奇妙です。その点、先日捕まったテッド・カジンスキー容疑者*13の態度は、首尾一貫しているようにも見えますよね。
 といっても別に揚げ足を取りたいわけじゃないんですよ。これは相対主義というものです(^_^)。

*13
 「ユナボマー」による連続小包爆弾事件の容疑者。ワシントン・ポスト紙などに文明批判の「論文」をむりやり掲載させた人ね。彼自身は、電気さえ通っていない山小屋で住んでいたようで。

 で、毎回のことだけど、p83にもこんなことが書かれています。
 「自然科学がすべてを証明出来るという考え方を捨てなければなりません」

 誰がエンデさんに証明出来るといったのか、それが問題点です。というよりも、それが唯一の問題点なのかもしれません。
 エンデさんに対して、そう言った奴がいたのでしょう、きっと。すべてはここから始まっているような気がしますね。
 アイザック・アジモフは、謎がすべて解決される日はくるのかという問いに対して、そんなことは絶対にないといっています。なぜなら、科学の本質はフラク

タルだからだそうです。一つの答えには必ず複数の疑問が含まれているのだと。だから、どんどん謎が増えていくことはあっても、謎がなくなることなどありえないということです。私には、これが科学のとる自然への態度だと思います。

 エンデさんは、まとめて次のように言っています。
 「唯物論はその思考プロセスの途中で立ち止まっている世界観なのですから」

 なるほど、と思います。唯物論のもつ集合範囲は確かに狭いですから。そういう理由でマルクスを責めるならどんどん責めていいと思います。しかし、例が悪い。
 p90には、先ほど登場した大脳生理学者がまた登場します。

 「そうすると、教授はそこで困難な論理的矛盾に陥ることになります。それは、
  なぜ電気化学的プロセスが自分自身を認識し、自意識を形成出来るかを説明
  しなければならなくなるからです。教授はそこで、人間の意識という謎に、
  再び直面することになります。」

 はたして矛盾しているでしょうか? 魂とはなにかと言う問いに対して、ある種のプロセスだと述べた教授は、問題を先送りしたに過ぎません。矛盾なのではなく、単なる先送りに過ぎないのです。こういうことは矛盾とは言わないはずです。事実、p91には「小数点一つ先にずらしたに過ぎません」と書いているではないですか。

# 「事実」とはこういう使い方をしてほしいモノだと思います。

 教授にとって、魂とは電気化学的プロセスナのでしょう。それでいいと思います。つまり、言葉の与え方だけの問題なのですから。
 むしろ、魂や、意識や、そういう言い方こそわかったような気になるだけ、始末が悪いのではないでしょうか。問題を先送りもせずに、その場で片付けてしまうことだからです。

第四章 科学という現代神話


 この章はもういいかと思ったのだが、最後にものすごく腹立たしいことが書かれているので、そこだけはいわなきゃね。
 p96でエンデさんは、30人を相手に目隠しでチェスができる名人であっても、無条件に優れた哲学者であるとは言えない、それはそれだけのことだと言っています。まったくその通りです。そしてアインシュタインについても、彼が物理学上の天才であるとしても、他の分野で意義深いことを述べることが出来るわけじゃないというわけです。それも、そのとおりです。そんなことは、言わなければわからない人のためには言ってほしいけど、アインシュタインを持ち上げて1巻から5巻まで書いてきたのは読者ではなく NHK の編者たちなんだから、そこのところ、よろしくお願いしたいものだと思ったりしました。しかし、エンデさんは、

 「アインシュタインの哲学的、政治的、経済的発言は、しばしば単純てした。
  この分野では、彼の射るような知力を感じることは出来ません。世界の平和
  を、”世界警察”によって達成しようという彼の提案は、それが相対性理論
  の創始者の口から発せられたのでなければ、おそらく誰からも注目されなかっ
  たでしょう」p96

 と述べています。
 これは違うんじゃない?
 この提案自体は、かなり優秀と言っていいはずの哲学者であるバートランド・ラッセルからも同時になされていた考えです。ラッセルはおそらく、考えるだけなら誰もが考えるだろうことがらを、アインシュタインを利用して実現出来るかもしれないと思ったのでしょう。そのへんは、私にはわからないことだけど、すくなくともエンデさんの言った、優れた物理学者が優れた哲学者ではないと言う真理をいうにふさわしい箇所ではないだろうと考えます。

第五章 アインシュタインを考える


 エンデさんは、アインシュタインについてあれこれ言っているけれども、この章にはアインシュタインの素晴らしい言葉があります。

 「私は、まだ神がサイコロ遊びをするとは思えません」。そしてこう
 続けました。「もしかすると私は間違いを犯す権利を得たかもしれない」。

 p102にある言葉です。自分が正しいと信じていることは間違っているのかもしれないと彼は自覚していた。でも、間違いを犯すことは権利なんですね。どうせ我々は間違いを避けることが出来ないんだから、今現在、自分が正しいと思っていることはそう思っていると言うしかないでしょう。それをアインシュタインは実現したわけだから、やはり彼は尊敬に値すると私は思います。万が一彼のせいで科学の発展に足枷がハメられることがあろうとも、それは仕方がないことだと思います。これまでにも、アリストテレスなんかが足枷をハメたし、ニュートンもちょっとハメたし、そんなことがぶっ飛ぶぐらいに宗教はとんでもない足枷をハメたのだから。

 えーと、p107からは非常に重要なことが述べられています。この「アインシュタイン・ロマン」の中で一番重要なことです。が、しかし、飛ばします。一つ一つ述べていくのが大変だからです。ここはぜひ、興味を持たれた人が自分で読んで考えてください。
 実は、私もエンデさんの考えには反対じゃない、というよりも賛成な立場で、特別あれこれ言わなければならない部分がない。だから略です。

 ってことで総括ですが、これはまあ、NHK のこの本をまとめた人が原因でこれほどまでに悪書になってしまっているのではないかと思いました。
 たとえば、エンデさんがアインシュタインが責任を感じなかったことから、彼の物理学が人間を排するものだと体系づけたのかもしれませんが、う〜ん、本当にそう考えているのだろうかといまでも疑問です。
 そんなことを考えるのであれば、飛行機を作ったライト兄弟をどうして責めないのか。ノーベルをどうして責めないのか。

 核物理学は人類にとってなくてはならないものです。その基礎をなしたアインシュタインの物理学だけがなぜ槍玉に上げられるのか理解が出来ません。

 たしかにまあ、チェルノブイリという失敗もあったけど、しかしなければならないと思います。ないようがいいと言う結論が出るまでは。

 一応データを言っておくと、ロシアやベラルーシなど各国の共同研究によると、放射性セシウム137は、ゾーン内では今でも1平方m当たり185〜3700ロベクレルほど検出されるとのことです。この測定値から放射線量を算出すると、地上1mの高さで1時間当たり約0.5〜1.0マイクロシーベルトとなる。これは東京付近の自然放射線、同約0.07マイクロシーベルトに比べ、7〜140倍も高い。

 んで、日本にも「もんじゅ」という失敗もあります。
 これは高速増殖炉というもので、原料をかなりの割合で使うことができる優れものなんですぜ。従来の軽水炉は天然ウラン 1t 中 5kg という量しか燃やせないのですが、高速増殖炉は 350kg が活用出来るわけで。こういう発電所がボコスカ出来れば、電気代はただ同然になる可能性もあるのですから。ついでに電話代もただ同然になってほしいものですけど(^_^)。
 核融合だって研究中ですけど、やはり電気代をただ同然にしてくれる可能性があるしね。
 「もんじゅ」の失敗もチェルノブイリの失敗も、かなりの割合で設計・管理ミスから来たものだと思えます。原理が問題になるのは筋違いです。
 で、そういう可能性をアインシュタインは作ったわけなんですから、たまたまアメリカがソ連をにらんで日本に爆弾をおとしたと言う事実でアインシュタインをやり玉に上げるのは筋違いも甚だしいと思います。

 最後の最後ですが、この本は面白かったです。ただ残念なのは、エンデさんの意志や気持ちが正確に現れているとは思えない部分があることです。本の構成上、そうなってしまっているのではないかと思える部分が目立ちます。
 できれば、エンデさんの文章としてこの意見を読みたかったです。なぜかって、面白かったのは、アインシュタインがどうこうしたと言う部分ではなく、いろいろな学者の意見やエンデさんの意見だからです。それをエンデさん自身がまとめてくれていれば、こんなことにはならなかったのではないかと思えるからです。

 でもまあ、満足。
 そうそう、谷川俊太郎の詩に、こんなのがあります。全文引用は出来ないけど、さわりだけ。なんだか、アインシュタインのことのようだと思ったものだから。アインシュタインは階段を降りていったのだけど、途中で、上ったほうがよかったかもしれないと思っただろうな。でも、あえて降りていったわけだ。


  モーツァルトを聴く人


  モーツァルトを聴く人はからだを幼な子のように丸め
  その目はめくれ上がった壁紙を青空さながらさまよっている
  まるで見えない恋人に耳元で囁きかけられているかのようだ

  中略

  モーツァルトを聴く人は立ち上がる
  母なる音楽の抱擁から身を振りほどき
  答えることの出来る問いを求めて巷へと階段を降りていく

(「モーツァルトを聴く人」谷川俊太郎 小学館 isbn 4-09-387129-9)

「猫楠」上下 水木しげる 講談社


 この本はコミックなんだけど、「アンシュタイン・ロマン」との関連を思い出して取り出してみた。主人公は和歌山の偉人 南方熊楠だ。
 下巻のP32にこんなくだりがある。柳田国男が南方熊楠を尋ねてきた時のシーンだ。

熊楠「柳田くん、アイルランドに『妖精学者』という言葉があるのだが、しっと
   るかね」
柳田「はい」
熊楠「まあたいていの子供は生まれつき妖精を感じる力をもっとるんじゃよ そ
   の子供には妖精の方でも特別待遇を与えて誰にも見えない自分らの秘密を
   見せてくれるんじゃよ。そういう子供は将来学者や詩人になったりするの
   で大事にされる。日本ではそういう習慣がないから『妖怪を見た』という
   とヘンにみられる。これは誠に残念なことじゃね」
柳田「でも妖怪と妖精は違うでしょう」
熊楠「バカ者 日本でも中国でもインドでもヨーロッパでも同じことだよ。マラ
   が立っても君らは卑猥と言って顔をしかめるが……君、世界中の男が皆マ
   ラを立ててるんだよ。それと同じことで妖怪は世界中にいるよ

 熊楠の言いそうなことだなと思う。もっとも、水木しげるの言いそうなことでもあるが(^_^)。また、当時では考えもつかないような環境保全にも力を注いでいたし、まるでエンデさんのようだと思った。
 時期的にはアインシュタインよりちょっと早い目ぐらいか。

「アインシュタイン・ロマン」 エンデさんの考えについて


 前の続きということで、いきなりだけど、エンデさんのなにが正しいのかを書いてみます。

# 私が高い所からエンデさんを採点するように見えるかもしれませんが、
# もちろん、その危険は十分にあります。その場合は、笑ってやって下さい。

 エンデさんは、科学は価値を評価しないと批判していました。つまり、価値を評価するのは人間で、かつ、科学は人間を排除するからです。主観を退ける科学が人間を減らす方向に向かうのは、当然の帰着なわけだというのです。

 しかし、これは非常に粗雑な論理だと私には思えます。例えば、医者は人体を科学した人がなるのですけど、人を退けるでしょうか。むしろ逆ですよね。まあ、命をなんとも思わない医者もいるのは、今回のみどり十字社のおかげで誰もが知るところとなりましたが、あれは別な話だと思います。どこにでもそういう人は居るというだけの話です。極端な例ですが、いくら乳房が脂肪の固まりであると科学したところで、乳房を見れば心がときめくし、触れば、心が踊る(これは私が男だからですげれども)。でも、だいたいが医者はスケペエだと決まっているくらいですし(^_^)。物理学者もスケベエです。数学者もスケベエです。あえて名前を挙げる必要はないでしょう。誰の名前を言ってもハズれっこない。いやまあ、例外はありえますが、例外に当たる可能性は限りなく低い。
 科学が人を退けるなんてのはとんでもない感違いだと思います。

 しかし、それでもエンデさんの考えには正しい部分はあります。対象が異なればですけど。私が考える対象は文学です。人文科学と言ってしまうとちょっと範囲が広すぎるかも。それはこんな感じね。

 ある作家の文章の終止形を調べ、統計処理を施して法則を発見したとします。驚くべきことに、その法則はシンプルであった。誰もが「うぉー」と唸った。法則を発見した人は褒め称えられた。で、まねして懸命になって調べる人が増えていった

 まあ、バカな話ですよね。作家の文章は理解し味わうもので、統計処理の対象ではないのですから*14。しかし、実は、このようなことは実際にあるのです。
 エンデさんの論理はこのようなケースに対しての叫びとして有効なのです。
 もっとしっかりした例としては、映画にもなっている「今を生きる」N・H・クラインバウム作に見ることができます。私の持っている新潮文庫版では p58〜61 に書かれていますので、是非ごらんになってください。ここだけでも本屋さんで立ち読みをしてください。
 主人公のキーティングは学校の先生で、教科書に書かれている内容についてこのように言っています。

 「うわああああああああ」彼は叫んだ。「嘘っぱちだ! でたらめだ! (中略)
こんなたわごと、今すぐごみ箱に捨てたまえ! これがこいつの居場所だ!」

つづく(だろう)

*14
 もちろん、このような手法で解析していくこともありますが、それだけでは意味がない。解析には目的が必要ですから。文章の価値を読み出せないのであれば、無意味です。

 というわけで、エンデさんの考えは文学的に十分に正しいと思います。ではなぜこの考えが科学には適用出来ないのか。
 実は厄介な問題です。

 たとえば、音楽を聴くとします。
 モーツァルトでもいいし、バッハでもいいです。ちなみに、今私が聴いているのはビートルズをバロック風にアレンジした音楽です。誰の編曲だったかな。これが終われば、先頃亡くなった武満徹さんの編曲のビートルズを聴こうかと考えています。荘村清志の演奏で。これ、すっごくいいんですよ。

 で、音楽を聴くとします。
 音楽が人間に語る言葉には、決して嘘がない。
 聴く人間に理解出来るか出来ないかは別として、そこにはすべてがさらけ出されている。誰かがいいと思った音楽には、必ずいい部分がある。わからなければ、わからないだけのこと。その場合でも、嘘は絶対にない。まるで、将棋や囲碁やオセロやチェスなどの戦いのように、すべてが時間と共にさらけだされていく。

 エンデさんの考えを音楽に当てはめると、それは、音符が描く曲線を方程式にしたり微分処理したりすることに何の意味があるのかという風にとらえることができます*15。まったくそのとおりですね。
 でも、誰もこんなことを言ったりしない。なぜなのかというと、そんな必要がないからです。聴いてよくない音楽は、いくら理屈をつけてもよくはならないからです*16。
 逆に、理屈を音楽に対して言う人がいれば、そいつは馬鹿じゃないのかと思ったりなんかして*17。

*15
 現代音楽には実際に美しい曲線を描く方程式を微分処理してなんていうのがある。まあ、聴いていて心地よいものではないんだけど。

*16
 とはいうものの、耳の聞こえないベートーベンが自殺未遂の末に作った曲とか言われればそれなりに感慨深いものがあるのだけど。

*17
 とはいうものの、ソナタ形式ぐらいは知っていてほしいものだと思ったりする場合も少なくはないが。

 ところが、文学は嘘を容易につくことが出来る。というよりも、文学って、そもそも嘘なんだからね。嘘と言うと言い過ぎだが、早い話が、言葉が現実であるはずがない。
 だから理屈が蔓延る。嘘をつかれまいとして、嘘を暴く方法がもてはやされる。
 だからこそ、エンデさんの理屈、つまり、ややこしい方法をああだこうだと言う前に、自分に対する意味を考えろという理論が力をもつのではないかと思います。その言葉が嘘か本当かわからない。だが、私はその言葉をどう感じるだろうか。それを考えろとエンデさんは言っていると私には思えます。人間を大事にするとはそういう意味ではないかと思う次第で。主体なわけなんだから。

 ひるがえって、科学ではどうでしょうか
 科学には、音楽と同様に嘘がないと思います*18。
 たとえば、万有引力。金持ちも貧乏人もすべてがこの力の前には太刀打ちが出来ません。光もまた、観測者が貧乏人か金持ちかで速度を変えたりしません。
 なんていうのか、金持ちだとか、女の子にモテてモテてしょうがない奴を見ると、そういう奴の乗っている車が空に舞い上がってしまわないかなと思ったりするのですが、残念ならがらそうはならないようです。

 かつては重い物が早く落ちるという誤った考えがありました。アリストテレスの考えです。では、アリストテレスは嘘を言ったのか?
 そうじゃなくて、単にアリストテレスは(たぶん)嘘つくつもりはなかったのだけど、間違ってしまったわけです。そのあやまりを正したのが1589年のガリレイです。どうやって発見したのかというと、実際に確かめたわけです。アリストテレスはどうして重い物が早く落ちると考えたのかというと、それは、頭の中で考えただけだったからです。
 試せばいいというのが科学の第一歩なんですね。
 こうやって確かめられ積み重ねられていって見つかっている落下に関する規則には、もう、嘘はありません。首に縄をかけられ落とされれば、実際に悪事を働いていてもいなくても、勁骨が折れるのです。
 ここでは、アリストテレスという偉大な哲学者の落下の考えをどう評価するかというエンデさんの態度は、文学的には意味がありますが、科学的には無意味です。
 この混同が「アインシュタイン・ロマン」の構造的なあやまりでしょうね。

[home] [back]