東京大学工学部の学力調査


 それに対して、継続して同一問題によって実施した調査がいくつかある。その中でよく紹介されているのが、東京大学の教養学部から工学部に進学する2年次の秋に、4回にわたって数学の学力テストを行ったものである。この調査は、科学研究費基盤研究報告集『大学における数学基礎教育の総合的研究』(1997年)「東大工学部における数学教育」からデータを取ったものであるが、作者はこの論文を入手できなかったため、戸瀬信之氏と西村和雄氏による『大学生の学力を診断する』(岩波新書、2001年)を参照した。その説明によると、この調査では「四回とも全く同一の問題を出題し、時間は一時間三〇分で、採点も全く同じ基準で行っている」と指摘している。結果は以下のとおり。

 第一回   第二回   第三回   第四回 
 1981年   1983年   1990年   1994年 
54.0 52.8 43.9 42.3

その上で、著者は次のように述べている。
「東京大学や京都大学まで学力低下に苛まれる背景には、「ゆとり教育」の実施がある。「ゆとり」というのは名ばかりで、(中略)、小学校、中学校の算数、数学の時間数は二〇年前に比べて、大幅に減少しているので、初等・中等教育できちんと数学を身につけていくことは非常に難しくなっているのである。もちろん理科の時間も同様である。」
 この見解は果たして本当に正しいのだろうか。
 この調査は他の調査よりも調査時期がかなり前であり、1992年に18歳人口がピークに達した時期の前後で調査が行われているから「少子化」の影響は考えられない。また、この時期は「受験競争批判」の中で受験モチベーションの低下がある程度あった可能性がないわけではないが、その影響も現在の「少子化」によるそれと比べればはるかに少ないであろう。さらに「ゆとり教育」の前後で成績が大きく低下していることから、「ゆとり教育」が学力低下をもたらしたとする「学力低下」論者の主張を裏付けるデータであることは言えそうだ。

 しかし、この調査は「学力低下」論者の報告だけでは見えてこないことが多くある。作者もこの調査の詳細を述べた資料を入手していないのでわからないのだが、大学2年次の秋に行った数学の学力調査の問題はどのようなものだったのだろうか。一般の人であれば「数学」と言えば高校の数学を想像するかもしれないが、大学教育における数学はベクトル解析や微分方程式など高校数学をかなり高度に発展させたものの他に、集合論、空間論(ユークリッド空間、ヒルベルト空間など)、群論、環論など、高校とは性格の違う数学も多くあって、そうした問題では高校の数学力がそのまま活かされるとは言えなくなる。逆に問題が高校数学を中心としたものであった場合であっても、学習してから経過した時間が長すぎる。
 ベクトル解析や微分方程式にしても、高校の基礎的な実力は必要であるが、やはり新たな内容が多く含まれる事になるし、大学生として1年半も数学教育を実施しているのだから、高校以前の教育にだけ責任があるとはいえないだろう。

 特に調査が行われた1980年代は、コンピューターの普及によってあらゆる分野のシミュレーション、数値計算が可能になり、数学や自然科学の中で大きな位置を占めてるようになってきた時期でもある。80年代に流行した「カオス」「フラクタル」などの分野は、コンピューターによる高速計算によって高度な発達を遂げた。そうした中でカリキュラムの改善がなされていたとすると、当然大学2年次の学力に影響する。もし、そのようなカリキュラムの改善が無かったとしても、コンピューターの価値を感じた大学教員や学生にとって、紙の上で行うような旧来の数学は、少なくとも以前に比べれば魅力を失っていっただろう。

 また、科学研究一般に対する大学生の意識も考慮した方がよい。大学教員が学生だった1960年代までは、1969年のアポロ11号による月面着陸を頂点として、科学技術の発展が人間に幸福をもたらすものとして高い評価を得ていたところがある。しかし、1970年代にはそうした熱狂も落ち着き、1972年に出版された『成長の限界』を出発点とした地球環境問題の世界的問題化によって、むしろ科学技術の限界性が意識されるようになった。この世代の学生と大学教員の世代の「科学技術」や「学問」に対する期待感の差は相当大きかったのではないかと想像できる。そしてそれは大学教育だけでなく、中学校や高校の教育にも大きな影響を及ぼしていた可能性がある。

 また、東大は受験最難関を維持している大学であるから、大学レベルの低下などは存在しないと思われるかもしれないが、東大そのもののレベルの低下は考えないにしても、「工学部」と限定すれば、「理科離れ」が影響している可能性がある。「理科離れ」というと理科教育の関心が低下したことがクローズアップされる事が多いが、当初この問題は科学技術系の人材不足に端を発したものであった。そして、この問題が広く認識されるようになったのは1990年代に入ってからだが、事態はそれ以前の1980年代から進行していたはずだから、それが東大工学部の学生のレベルに影響した可能性は十分にある。つまり、東大工学部の学力低下が「ゆとり教育」によるとは必ずしも言えないのである。



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