フェラーリは昔も今も、そしてこれからも変わらない。F1で最も有名なチームとして、1990年にマクラーレンが跳ね馬を脅かすまで、どこより優勝回数では成功したチームだったと言えるだろう。フェラーリは1999年シーズンにコンストラクターズタイトルをその手に取り戻した。
フェラーリの歴史は1950年にワールドチャンピオンシップ初参戦にさかのぼる。以来、エンツォ・フェラーリはその力強さを見せ続けてきた。最初の年こそ結果に恵まれなかったが、翌1951年はアルベルト・アスカリとホセ・フロイラインがアルファロメオと争い、最終レースではファン-マヌエル・ファンジオに迫る戦いを見せる。アスカリは1952年、1953年を優位に進めるも、1954年は2500CCエンジンを取り入れたマセラティとランチアに敗北。1955年終盤で、D50で走るファンジオが3勝を決め、ランチアから首位を奪い、自身4度目のタイトルをものにした。しかし1957年、不運にもファンジオはマセラティに移籍。 アルゼンチンのエースを失い、フェラーリの苦悩は続いた。
1958年、新しくエンツォの息子であるディーノの名前から命名したTipo146が登場し、フェラーリはF1界に復帰。その年、多くのファンがスターリング・モスこそがチャンピオンにふさわしいと感じていたが、惜しくもタイトルはマイク・ホーソーンに奪われ、シーズンを終了している。
その後の2年は、クーパー・チームの圧倒的支配の前に敗れるも、1961年、復讐に燃えるフェラーリは1500CCエンジンのTipo156“シャーク・ノーズ”で見事に復活を遂げる。しかし悲劇は突然訪れた。チームだけでなく、F1界にも巨大な影響力を持っていたドライバー、ウォルフガング・フォン・トリップスがイタリアGPで事故により落命。チームに衝撃が走る中、チームメイトだったフィル・ヒルがチームのために勝利をもぎ取った。
1964年、ジョン・サーティースによってフェラーリに2度目のタイトルがもたらされる。彼は2輪と4輪、両方のチャンピオンシップに勝利した唯一の人間としても有名。
1966年、チームは3000CCエンジンを導入、再びその挑戦に苦しむことになった。翌1967年はコスワース・スーパーDFVで戦い抜く。そこから8年間、フェラーリはF1チームの中ではよくて中堅チームでしかなかった。ジャッキー・イクスによる成功に加え、1970年はそのチームメイト、クレイ・レガッツォーニのイタリアGP勝利などが挙げられる。
未経験だったが速さには定評があったニキ・ラウダが1974年にチームに加入。そのシーズンは、エマーソン・フィッティパルディ率いるマクラーレンに敗れるが、翌1975年にはタイトルを奪取している。ラウダはニュルブルクリンクでの大事故さえなければ、再び勝っていただろう。しかし事故の影響から、チームメイトのジェームス・ハントにも敗れてしまった。1977年、ニキ・ラウダは再びフェラーリで勝利を挙げている。
1979年はジョディ・シェクターがチームにタイトルをもたらし、ミハエル・シューマッハの出現まで、ドライバーズタイトルをもたらしたフェラーリ最後のドライバーだった。シェクターはチームメイトのジル・ビルヌーブをも破っている。
1979年シーズン後半は、ウィリアムズのアラン・ジョーンズより312T4が目立った活躍を見せた。しかし、翌1980年シーズンのT5は大失敗に終わる。
この頃から1500CCターボエンジンが姿を見せるようになった。1981年シーズンからフェラーリは126Cもプロデュースしている。そしてジル・ビルヌーブがそのマシンで、モナコとハラマ両方を接戦の末に勝利を収めた。チームはイギリス人デザイナー、ハーヴェイ・ポストレスウェイトを雇い、1982年に126C2をデザイン。しかし、悲劇はもう一度繰り返され、今度はジル・ビルヌーブがゾルダー・サーキットで予選中に命を落とした。チャンピオンシップをリードしていたディディエ・ピローニもホッケンハイムで両足を複雑骨折する重傷を負ってしまう。フェラーリはコンストラクターズ選手権を2年連続で勝利するも、ドライバーズタイトルは他のチームに奪われてしまっている。
それ以降のフェラーリは、運命に翻弄されているようだった。1985年、ミケーレ・アルボレートが強さを見せるが、1988年にはチームの父であるエンツォが 90歳で逝去。その後の1990年シーズン、アラン・プロストが5勝するも、議論を呼んだプロストとアイルトン・セナの日本でのアクシデントもあり、タイトルを獲得することはなかった。
シューマッハがフェラーリに加入した1996年当初、あまり歓迎してはいなかったティフォシ。しかし、いずれは彼がチームマネジャー、ジャン・トッドのサポートを受け、チームに刺激を与えるであろうと多くの人が信じていた。シューマッハは低迷を続けていたチームをまとめ、シーズン終わりまでに何とか体制を立て直し始める。その活躍の結果、ティフォシからの支持を得て、シューマッハはチーム全体の顔となり始めたのだ。
1997年、5勝したシューマッハはタイトル争いに加わるが、この年の最終戦でジャック・ビルヌーブと衝突。タイトル争いに敗れてしまった。
1998年、フェラーリは19年振りにドライバーズタイトルの獲得の夢を見る。しかし、シーズン最終戦、シューマッハが駆ったF300はグリット上でエンストし、再びチャンスを逃してしまったのだ。フェラーリのドライバーが最後にチャンピオンになってから20年が経っていた。1998年からマクラーレンの優勢は変わらなかったが、フェラーリのエンジニアたちもマクラーレンに対抗するマシンF399をプロデュースする。
1999年、シューマッハは素晴らしい戦いを続けたが、イギリスGPで事故に遭い、シーズン絶望かと思われた。シューマッハの不在は、単に1人のドイツ人が勝利をもたらさなくなったこと以上にチームへの影響が大きかった。F399は彼のテクニックなしでは苦しく、火が消えたように無気力なピットで貧困なマシンを見つめるだけだったフェラーリ。最大のライバルのマクラーレンに先を行かれ、もはや挑戦の意欲は見られなかった。そんな中、アーバインはミカ・ハッキネンとのタイトル争いを繰り広げる。残り2戦にシューマッハが無理をして戻り、チームメイトをバックアップ。フェラーリはドライバーズタイトルこそ取れなかったが、1999年コンストラクターズタイトルをついに勝ち取ったのだ。チームメイト、エディ・アーバインの活躍により、チームにようやく栄光が戻ってきたのだった。
オーストラリアで開幕した2000年シーズン、他を圧倒する好調なスタートを切ったフェラーリ。シューマッハが最後の2レースを残して、長年の夢だったドライバーズチャンピオンを視野に捕らえる。シューマッハのタイトルが決まった次のレースで、コンストラクターズタイトルも確定。フェラーリは2つの大勝利を手にし、チームの夢は遂に果たされた。
2001年もシューマッハの4度目のタイトルと共に、チャンピオンシップの圧倒的勝利を演出。同時にチームに3年連続のコンストラクターズ・トロフィーももたらされた。2年連続でダブルタイトルを獲得したのは1953年以来のこと。
2002年、F1におけるシューマッハとフェラーリの支配は、もはや誰の目にも明らかだった。シューマッハはシーズン第11戦目にして、早々に5度目のドライバーズタイトルを獲得。チームメイト、バリチェロの助力も大きく、その後すぐに4年連続となるコンストラクターズタイトルも決定させた。17戦中15戦に勝利するという圧倒的な強さで次々と新記録を更新したのだ。
2003年はFIAがフェラーリ、そして-ューマッハの勢いに歯止めをかけようと、数項目にわたってレギュレーションの変更が行われた。それでもフェラーリはシーズン中に起こった数々の苦難を乗り越え、タイトル争いは最終戦の日本GPまでもつれこんだ。そしてフェラーリとシューマッハは戦いに勝ち、さらなる栄光の記録を更新している。
2004年はフェラーリにとってこれ以上ないほど最高のシーズンとなった。18戦中15勝、表彰台に上ること29回、ポイント獲得は32回で、完走を逃したのはわずか2回。F2004は秀逸なシャシーで、チームの開発が2005年の設計に移ってからも長く勝ち続けた。
シーズンはシューマッハの完ぺきなスタートで始まる。バリチェロから比較的楽な勝利をもぎとったシューマッハは、その後4戦連続で勝利。しかし、モナコでファン-パブロ・モントーヤと接触を起こし、彼の連勝はストップした。このレースの勝者、ルノーのヤルノ・トゥルーリのために言っておくと、フェラーリはモナコで戦術ミスを犯しており、シューマッハのリタイアがなかったとしても勝利は難しかっただろう。
ここから7戦は再びシューマッハの独壇場となり、スパ・フランコルシャンを前に7度目のワールドチャンピオン獲得に王手をかけた。シューマッハはこのレースをきっちりと2位でフィニッシュし、見事チャンピオンに輝いている。
しかし、フェラーリのコンストラクターズチャンピオンシップ6連覇も、シューマッハのドライバーズタイトル5連覇も、2005年でついに途絶えてしまった。ディフェンディングチャンピオンがルノーやマクラーレンにまったく太刀打ちできないという、異例のシーズンを過ごしたフェラーリは最強コンビと謳われてきたブリヂストンと共に苦しい戦いを強いられたのだ。その結果、ブリヂストンユーザーだけが出走したアメリカGPでシューマッハがかろうじて1勝。そのシューマッハはドライバーズチャンピオンシップを3位で終えている。
フェラーリの強さが復活した2006年、シューマッハはイモラとニュルブルクリンクで2連勝を飾る。そして、インディアナポリス、マニクール、ホッケンハイムでも勝利を重ね、チームの王者奪還へと希望をつないだ。
トルコでフェリペ・マッサが自身初ポールポジション、そして初優勝を遂げた後、さらにシューマッハがモンツァと中国で勝利を挙げた。当時、チャンピオンシップトップに君臨していたフェルナンド・アロンソを追い詰めたシューマッハだが、勝負のレースとなった日本GPでシューマッハのエンジンがブロー。リタイアを喫したシューマッハが目指した8度目のタイトル獲得の夢が消えた。マッサは最終戦ブラジルGPで母国優勝を果たし、フェラーリでの初シーズンを終えている。また、シューマッハは同グランプリで予選のトラブルやレース序盤のタイヤのパンクに見舞われながらも、目の覚めるような走りを披露し、最後尾から4位入賞をもぎ取る活躍を見せた。
そのシューマッハが2006年シーズンをもって引退、フェラーリは新たな時代へと突入する。チームはシューマッハの後任にキミ・ライコネンを起用、マッサとのコンビでシーズンに挑むこととなった。舞台裏では、テクニカルディレクターのロス・ブラウンがその役職を去り、マリオ・アルモンドが後任として役目を担い、スポーティングディレクターにはステファノ・ドメニカリが就任することになったのだ。
さらに、長年パートナーとして共にタッグを組んできたブリヂストンが、F1単独タイヤサプライヤーとなるなど、いくつかの変更があったにもかかわらず、2007年シーズンのフェラーリも力強さを発揮する。
フェラーリでのデビューレースとなった開幕戦で、いきなり優勝を挙げたライコネンはフランス、イギリス、ベルギーと勝利を重ねていった。タイトル争いは最終戦までもつれにもつれたが、最後の2レースとなった中国GPとブラジルGPで2連勝を飾ったライコネンが、それまでチャンピオンシップリーダーだったライバルのルイス・ハミルトンを上回り、自身初のドライバーズ選手権制覇を達成。一方のマッサは3勝を挙げて4位でシーズンを終えている。
F2007は長距離サーキットで見事な競争力を発揮していたが、より短くテクニカルなサーキットではライバルのマクラーレンが強さを見せていた。しかし、フェラーリのナイジェル・ステップニーが関係するスパイ事件によって、マクラーレンのポイントがはく奪され、コンストラクターズ選手権から除外されたこともあり、フェラーリがコンストラクターズタイトルを手中に収めている。
ライコネンと共にチャンピオン奪還を果たしたフェラーリは、主だった変更もなく新シーズンに挑む。プレシーズンテストでは2008年型マシンであるF2008が強力な速さを見せている。