ウィリアムズチームの創立は1970年代と、歴史はやや浅いが、今や古株であるフェラーリやマクラーレンと肩を並べる強豪チームだ。わずかな資金からスタートし、プライドと威信を懸けて戦い、多くの勝利をつかみ取ってきた。1997年には9度目のコンストラクターズタイトルを獲得している。
チームを率いるフランク・ウィリアムズ代表は数々の逆境に立ち向かい、そして乗り越えて生きてきた人物。若き日のウィリアムズ代表はドライバーとしての参戦経験もあったが、活路を見いだすことはできていない。そんな中、当時イギリスの新鋭ドライバーだったピアース・カレッジと親交を深め、1969年に共同でチームを興した。翌1970 年、ウィリアムズ代表はデ・トマソ製のマシンでピアースを走らせていたが、ジャック・ブラバムが当時見せつけていた速さに立ち向かうには至らず。その年のオランダGPでピアースが炎上事故による悲劇の死を遂げ、ウィリアムズ代表は途方に暮れてしまった。山のような負債が残り、叶えるべき希望も失ってしまった状態だったのだ。
ウィリアムズ代表はカナダの資産家ウォルター・ウルフとチームを組んで再起を計ったがうまくいかず、苦みは増すばかりだった。しかし、ここで新進エンジニアのパトリック・ヘッドを擁してウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングを設立。舞台は整った。
ウィリアムズ代表がチームを支援してくれるサウジアラビア人たちとの交渉事に奔走していた1978年。ヘッドのデザインによるFW06のパフォーマンスが、アラン・ジョーンズのドライブによって発揮されるようになる。FW07を駆るクレイ・レガッツォーニが1979年のシルバーストーンで優勝を果たし、ウィリアムズ念願の初勝利が訪れた。続いてジョーンズも勝利を挙げ、ウィリアムズの快進撃が始まる。
1980年、ジョーンズのチームメイトとして迎えられたのは、アルゼンチンの英雄カルロス・ロイテマン。この年はジョーンズが安定した走りを繰り返し、ドライバーズとコンストラクターズのダブルタイトルを獲得した。翌1981年もチームはタイトルを獲得したが、ジョーンズはブラバムの若手ドライバー、ネルソン・ピケに敗れ、引退の時を向かえる。
1982年、この頃からターボが時代を席巻し始める。しかし、ケケ・ロズベルグはフォード・コスワースというノンターボエンジンを積んだウィリアムズに乗って、表彰台フィニッシュを繰り返した。コンストラクターズタイトルはフェラーリの手にわたったものの、ロズベルグは年間わずか1勝ながら、見事にドライバーズタイトルを獲得している。
1983年からはホンダとの接触により、ターボエンジンの搭載が始まった。V6ターボエンジンは、まだ重く荒いものだったが、時間をかけて改良が施される。1986年にまで時が進むと、最強の座は欲しいがままになった。そしてチームは再びコンストラクターズタイトルを取り戻す。しかし、最終戦オーストラリアGPでナイジェル・マンセルが18周目にタイヤバーストによりリタイア、このレースで優勝したアラン・プロストにドライバーズタイトルを奪われてしまった。
この年、ウィリアムズ代表はポールリカール・サーキットから帰宅する運転途中で交通事故に遭い、下半身不随となって車椅子での生活を余儀なくされている。
それでも、1987年のウィリアムズも最強だった。ピケとマンセルがFW11のステアリングを握り、自分のチームで至上のバトルを繰り広げてくれる様子を車椅子から眺めていたウィリアムズ代表は、心の底から楽しんだ。そしてチームはドライバーおよびコンストラクター2度目のダブルタイトルを獲得している。
翌1988年、ピケはロータスに移籍し、チームは優れたドライバーを1人失ってしまう。また、この年からはホンダエンジンさえも失い、散々なシーズンとなった。
苦しみ抜いた翌年の1989年からはルノーエンジンを獲得し、新たなスタートを切る。マシンの性能は優れていたが、マンセルがチームに戻る1991年まで地味なドライバーを抱え、がまんを強いられている。マンセルはその2年間、フェラーリに在籍した。
そして1991年、ウィリアムズ代表が用意したFW14は素晴らしいマシンだったが、マンセルのマシンにはギアボックストラブルが相次ぎ、マクラーレンのアイルトン・セナに敗北を喫してしまう。しかし、翌1992年には開幕5連勝を含む16戦9勝と圧倒的な強さでマンセルとウィリアムズがダブルタイトルを獲得。“無冠の帝王”と呼ばれ続けたレッド5、ナイジェル・マンセルに初の栄冠がもたらされた。
1993年、猛烈なウィリアムズのシート争奪戦の末、マンセルはインディ選手権に移籍した。したがって、マンセルがカーナンバー1をつけて走ることは一度も実現していない。替わってシートに収まったのはアラン・プロスト。プロストの計算高い走りで、この年もチームは、ずば抜けた強さを見せて2年連続のダブルタイトルを獲得した。
ウィリアムズ代表はセナに初めてF1マシンをドライブする機会を与えた人物だ。ウィリアムズ代表は、かねてからセナのチーム加入を切望し、ついに1994年シーズンにセナとの契約が成立。しかし、悲劇が起こった。第3戦サン-マリノGPでセナがレース中の事故でこの世を去ったのだ。突然訪れた悲しみが、ウィリアムズ代表に、そしてチーム全体に大きな影を落とした。だが、F1は悲しみを受け止めなければならない。セナ亡き後はデイモン・ヒルがチームのエースとなった。失望を乗り越え、セナと同じマシンでミハエル・シューマッハに挑んでいくヒルの勇敢な走りは、悲しくもファンに感動を与えるものだった。結局、最終戦でシューマッハと接触、両者リタイアしたことによりヒルのドライバーズタイトル獲得は叶わなかったが、チームにはコンストラクターズタイトルがもたらされている。
1995年には当時のライバル、ベネトンにも同じルノーエンジンが積まれるようになった。素晴らしい活躍を見せたシューマッハに舌を巻いたばかりでなく、チームの戦略も後手後手に回りヒル4勝、そしてデビッド・クルサード1勝と、この年ウィリアムズの勝利数は5回にとどまっている。
1996年は前年に比べてはるかに良い年となった。インディからやって来たジャック・ビルヌーブと、デイモン・ヒルの2人で16戦中12勝を挙げる。ヒルは念願のドライバーズチャンピオンを獲得し、ジャックも2位で続いた。ウィリアムズ代表は8度目のコンストラクターズチャンピオンの栄冠を手に入れたのだ。
デイモン・ヒルはシーズンが終わると同時にチームを離れ、1997年はビルヌーブのパートナーとしてハインツ-ハラルド・フレンツェンが加わった。フェラーリのシューマッハが最後までタイトルの座を脅かしたものの、ウィリアムズは2年連続のダブルタイトルを獲得。チームのタイトル獲得回数は、これで9回となった。
残念なことに、1998年と1999年シーズンはちょっとした災いの時期を過ごすことになったウィリアムズ。ルノーがF1から一時撤退し、チームはエンジンパワーの劣るスーパーテックエンジンを積んで戦わなければならなかったのだ。1998年は序盤からマクラーレンが黄金時代を彷彿とさせる圧倒的な強さで、ダブルタイトルを獲得した。失望のシーズン終了後、ビルヌーブはティレルの流れを受け継いだ新チームB・A・Rに移籍。そしてフレンツェンはジョーダンに移り、ウィリアムズを離れた。
1999年にウィリアムズ代表はビルヌーブの抜けた穴を埋める存在としてCARTチャンピオン、アレックス・ザナルディと契約を交わし、チームメイトにはラルフ・シューマッハが抜擢される。ザナルディはウィリアムズ代表の期待に応える走りを見せることができず、シーズンをノーポイントで終えてしまった。しかし、ラルフは何度か表彰台に上る活躍を見せている。しかし、チームの戦闘力は十分でなく、チームは過去10年で最低の成績となるコンストラクターズランキング5位でシーズンを終えた。ザナルディは2000年1月をもってドライバー契約が終了し、チームを離脱している。
ウィリアムズがザナルディの後釜として選んだのは、若干20歳の才能溢れるイギリス人、ジェンソン・バトンだった。また、2000年からBMWとのパートナーシップも開始。BMWエンジンを積んで両ドライバーとも善戦していたものの、シーズン中盤の伸び悩みが響き、チームのコンストラクターズランキングは辛くも3位を確保するにとどまった。この年見せたバトンの走りは目覚ましいものだったが、ウィリアムズ代表は苦渋の選択を迫られる。バトンを残すか、それともコロンビアのスーパースター、ファン-パブロ・モントーヤをチームに引き入れるか、だ。ウィリアムズ代表が選んだのは後者だった。バトンはベネトンに2年間のレンタル移籍。どんな結果でも、後悔のないようにと下した決断だった。
2001年、コロンビアからやって来た新人ファン-パブロ・モントーヤは登場してすぐさまF1界を震撼させる。モントーヤはマシンの信頼性に悩まされてはいたものの、ポールポジションと表彰台フィニッシュを何度も獲得してみせた。そしてイタリアGPではポール・トゥ・ウインを果たし、遂に初勝利を挙げる。チームメイトのラルフと合わせてウィリアムズは4勝をあげ、ライバルのマクラーレンと熱い争いを演じたが、この年はコンストラクターズランキング3位で終えた。
2002年はマクラーレンに競り勝ち、コンストラクターズランキング2位で終了。しかいs、別次元の走りを見せたフェラーリに立ち向かうことはできなかった。ドライバーズランキングではモントーヤが3位、ラルフが4位の成績となっている。
2003年も2人のドライバー体制は継続、ついにフェラーリとのギャップを埋めることになった。コンストラクターズチャンピオンの座を懸けた戦いは最終戦日本GPまでもつれたが、結果は2位。
好むと好まざるとにかかわらず、BMWウィリアムズの2004年は結果ではなく、シーズン中盤で姿を消した“セイウチノーズ”の年として語られることになるだろう。5年間共に戦ってきたBMWとウィリアムズF1チームのパートナーシップだが、まだフェラーリに対抗し得るパッケージを生み出せずにいた。
モントーヤがBMWウィリアムズでの最後のレースで勝利を挙げ、苦しかったシーズンの最後に大きな花火を打ち上げる。表彰台フィニッシュは4回、コンストラクターズランキングは3位のルノーに17ポイント差をつけられ、4位に終わった。ちなみに、ウィリアムズが最後にタイトルを獲得した 1997年にエンジンを供給していたのがルノーである。
2005年のウィリアムズはドライバーラインアップを一新。レースドライバーにマーク・ウェバーとニック・ハイドフェルド、テストドライバーにアントニオ・ピッツォニアという顔ぶれで臨んだ。チームはシーズンを通してFW27にさまざまな空力パーツを投入したが、結果にはつながらず、苦しい1年を過ごしている。そんな中、ハイドフェルドが2位、ウェバーが3位に入り、ダブル表彰台を獲得したモナコGPは唯一のハイライトだったと言えるだろう。また、コンストラクターズランキング5位という順位もチームの期待とはかけ離れていた。
2005年シーズン途中、BMWはザウバーを買収、ウィリアムズを離れて自チームを結成することを表明。そのため、ウィリアムズは2006年に向けてコスワースとエンジン供給契約を交わしている。それにより、ウィリアムズ・コスワースFW28のパッケージが2006年シーズンの“ダークホース”になるとの予測も浮上していた。書類上は、コスワースV8エンジンがF1における最良エンジンだったのだ。そして、チームはGP2チャンピオンのルーキー、ニコ・ロズベルグと契約、ウェバーが残留して王者を目指すことになった。
しかしながら、ウィリアムズにとって2006年は悲惨なシーズンとなり、ポイント獲得数はウェバーが7点、ロズベルグが4点で合計わずか11点。コンストラクターズ選手権では8位フィニッシュという結果に終わっている。シーズン開始当初は、ロズベルグがF1デビューレースとなった開幕戦バーレーンGPで2 ポイントを獲得し、さらにファステストラップを記録するなど、輝かしいスタートだったが、これがシーズンのハイライトとなってしまったのだ。ウィリアムズ・コスワースは無数の信頼性問題に苦しみ、パワープラントにおける制限的なマイレージが、各レースのタイム面でロズベルグを苦しめることとなった。
ウェバーは3回の入賞を果たしたが、シーズン終了前に2007年にレッドブルへ移籍することを発表。サム・マイケルがファクトリーでの活動に戻ったことで、ヘッドが最終戦ブラジルGPに向けてパドックに復帰した。
コース上では扱いにくいマシンと共に、ジェットコースターのように浮き沈みの激しいシーズンを過ごしたロズベルグが、ブラジルGPでチームメイトのウェバーに接触、2台そろってオープニングラップでリタイアを喫している。
そんなウィリアムズは2007年に向けて、チームのタイトルスポンサーに新たにAT&T;を迎え、エンジンサプライヤーとしてトヨタと契約を交わした。ドライバーには残留したロズベルグと、テストドライバーから昇格したアレキサンダー・ブルツを起用して戦いに挑んだ。
この年、ウィリアムズはロズベルグとブルツが合計33ポイントを獲得し、コンストラクターズ選手権を4位でフィニッシュ。ロズベルグはシーズンを通して力強いレースを展開し、シーズン後半は入賞常連となった。また、最終戦ブラジルGPでは自身最高位となる4位でチェッカーを受けている。一方、ブルツはレース復帰を果たすも、なかなか結果を出せず、特に予選で苦悩した。それでも、カナダGPでは同年のチーム唯一の表彰台を記録している。しかし、この結果は十分と言えず、最終戦はトヨタの支援を受けていた中嶋一貴がブルツの代わりに出走した。
2008年シーズン、ウィリアムズはロズベルグと中嶋のコンビで挑むと発表。ロズベルグはもはやルーキーではなく、チームをけん引する立場であり、チームを昔のように常勝チームに復活させるべく、中嶋と共に戦っていく。