長きにわたるマクラーレンの秘蔵っ子、ルイス・ハミルトンは2006年シーズンに2連覇を達成したワールドチャンピオンのフェルナンド・アロンソのチームメイトとして、2007年からF1グリッドに並ぶこととなった。
マクラーレンのチーム代表であるロン・デニスと、10歳の時にオートスポーツ・アワードの受賞パーティーで出会ったハミルトン。2006年シーズンの GP2で素晴らしい活躍を見せたハミルトンは、初参戦の年にもかかわらずチャンピオンに輝いたことを背景に、2007年シーズンのF1レースシートを獲得したのだ。
1995年にカートの頂点に上り詰めると、2000年には主だった国際タイトルを総なめにする。2001年、ハミルトンはフォーミュラ・ルノー・ウィンター・シリーズに参戦し、全体の5位でフィニッシュした。2002年にはフォーミュラ・ルノーに参戦、マノー・モータースポーツと共に3勝を挙げ、チャンピオンシップを3位で終えている。
同じくマノー・モータースポーツから臨んだ2003年の同チャンピオンシップで、ハミルトンはチャンピオンを獲得し、大躍進を遂げる。2004年からは F3ユーロシリーズに参戦、ASMに移籍した翌年にチャンピオンに輝いた。そして2006年、GP2にステップアップしたハミルトンはARTグランプリに所属。ネルソン・ピケJr.とのタイトル争いを制し、王者の座を獲得した。
12歳のころからハミルトンを育てているマクラーレン・メルセデスは、2006年シーズン途中にファン-パブロ・モントーヤがNASCAR転向を発表し、チームを離脱したことから、2007年のレースドライバーにハミルトンを指名。ハミルトンは、長年、テストドライバーを務め、2006年シーズン途中からはレースシートに座ったペドロ・デ・ラ・ロサを抑えて、レースドライバーの座を獲得したのだ。
22歳でF1レースデビューを果たし、モータースポーツのどのカテゴリーでも成功を収めたハミルトンではあるが、2005年と2006年のチャンピオンシップを制したフェルナンド・アロンソのパートナーとしてF1に進出することで、彼が威圧されてしまうとの懸念も強かった。
しかしながら、彼ほどにデビューシーズンに向け、準備を万全に整えたドライバーはF1史上類を見ないだろう。ハミルトンはルーキーイヤーに素晴らしい活躍を披露することとなる。
デビュー戦オーストラリアGPで3位表彰台に上ると、第2戦マレーシアGP以降、バーレーン、スペイン、モナコで2位に入る大活躍。一方、コース外ではアロンソとの不仲が伝えられる。それでも、モントリオールで初優勝を果たすと、続くアメリカGPでも勝利を収め、2連覇を達成。
困難をものともせず、ハミルトンはシーズン中盤にチャンピオンシップリーダーとなる。予選のアクシデントが響いたヨーロッパGPで、9戦連続表彰台記録はストップしたが、次のハンガリーGPで見事な復活勝利を果たす。その一方で、チームメイトとの関係は一層張り詰めていった。
残り2戦となった日本GP、大荒れの天候となった富士スピードウェイでシーズン4勝目を挙げたハミルトンは、12ポイントの差でトップをキープ。
しかしながら、最後の2レースはハミルトンとマクラーレンに大きなプレッシャーがのしかかる。中国GPではニュータイヤへ交換するタイミングを誤り、急いでピットに向かうも時すでに遅し。そのままリタイアを喫してしまう。それでも、最終戦ブラジルGPを前にライバルのアロンソに5ポイントの差をつけていた。
インテルラゴスで行われた予選でフェリペ・マッサに続いて2番手となったハミルトン。決勝ではスタートでアロンソやキミ・ライコネンに先を行かれてしまい、必死にポジションを奪い返そうとしたが、コースを外れ、さらに順位を落とした。その上、メカニカルトラブルが発生、ギアが替えられなくなってしまう。なんとかレースを続けたハミルトンは2ストップから3ストップ作戦に切り替え、懸命にプッシュしていった。
トップでチェッカーを受けたのはライコネン、次いでマッサ、アロンソとなり、ハミルトンは最終的に7位でフィニッシュ。チャンピオンシップはわずか1ポイント差でライコネンが王者に輝き、ハミルトンはアロンソと同点で2位となった。
ラスト2レースで選手権制覇を逃したハミルトンとマクラーレンだが、ルーキーとしては驚くほど見事なシーズンを過ごしたハミルトンは、チームと2012年までの長期契約を交わしている。
F1参戦わずか2年目にして、ハミルトンはデジャヴを感じながら2008年シーズン最終戦を迎えたことだろう。5位以内でフィニッシュすればタイトルを争ってきたマッサがどういう結果を残すにしろ、彼が栄冠を手にするという状況で迎えたのだ。
それまでのシーズンはハミルトンにとってジェットコースターのようなものだった。開幕戦オーストラリアGPを制すると、モナコ、イギリス、ドイツ、中国でも表彰台の頂点に立ったハミルトン。しかしながら、スペイン、カナダ、フランス、ベルギー、イタリア、そして日本ではミスを犯して自身のシーズンを複雑化させた。
マッサと争った長いシーズンは最終戦の舞台ブラジルで劇的な結末を迎える。トップチェッカーを受けたのはマッサで、その時のハミルトンは6番手を走行。しかしハミルトンはチェッカーに向かう最終ラップでコンディションに苦悩するティモ・グロック(トヨタ)をかわしてタイトル獲得の最低条件だった5位を手中に収めたのだ。
ワールドチャンピオンに輝き、新たにチームメイトに迎えたヘイキ・コバライネンを完全に抑えたハミルトンだったが、フェラーリのミスによってマッサの道がやや険しくなったことは少なからず幸いだったと言えるだろう。確かにその技量とペースを発揮したハミルトンではあったものの、デビューシーズンの方が印象的だった。
モータースポーツ最高峰で2年の経験を得て、ハミルトンは自信を持って2009年シーズンに挑む。