リ ン ゴ の 歌

 

焼け跡の虚脱状態のなかで,「リンゴの歌」(サトウ・ハチロウが灯火管制の暗幕の下で,敗戦の2カ月前に作詩した)が大ヒットした(戦後のヒット歌謡曲第1号)。平易な歌詞と軽快なリズムを松竹歌劇団出身の並木路子が明るく歌いあげた。この歌は,1945(昭和20)年10月10日に封切られた戦後映画第l作目(GHQの検閲映画第1作でもある)となった「そよかぜ」(松竹・佐々木康監督作品)の主題歌レコードは翌1946{昭和21}年1月発売であった。映画の内容は楽屋番の母親の手伝いをしていた少女(並木路子)が楽団員たちに助けられながら歌手になっていくという一種のスター誕生物語。映画はヒットしなかったが,主題歌は大ヒットした。

「りんごの気持ちはよくわかる」という歌詞とネアカのメロディーが,虚脱状態の日本人の気持ちをとらえたのである。

この歌がラジオで初放送されたのは,同年12月10日芝・田村町の飛行館スタジオでのNHKの公開番組『希望音楽会』。このとき並木は小脇にリンゴの入ったカゴを抱えて客席に降り,リンゴを配りながら歌ったが,その頃は貴重品(この時リンゴ1個の値段は,闇市で5円(サラリーマンの月給200円時代)もした。それゆえ「リンゴ高いや,高いやリンゴ」という替え歌までできたくらいである:大島幸夫『人問記録―戦後民衆史』216貢)だったリンゴの奪い合いで会場が大騒ぎになったのは有名なエピソード。

この歌は暗く辛い戦争の時代をくぐり抜けてきた人々の安堵的解放感にマッチして大流行したというのが定説になっている。人々は,やり切れなく暗い,そして生きることさえ因難な状況から脱出したいという願望をこの歌に託したのであろうか? 

 

    

  (ジャケット)                 (並木路子)

 

  詞 サトウハチロー   曲 万城目 正

赤いリンゴに唇よせて

だまってみている青い空

リンゴはなんにもいわないけれど

リンゴの気持はよくわかる

リンゴ可愛や可愛やリンゴ

あの娘(こ)よい子だ気立てのよい娘

リンゴに良く似た可愛い娘

どなたがいったかうれしいうわさ

かるいクシャミもとんで出る

リンゴ可愛や可愛やリンゴ

朝のあいさつ夕べの別れ

いとしいリンゴにささやけば

言葉は出さずに小くびをまげて

あすも又ねと夢見顔

リンゴ可愛や可愛やリンゴ

歌いましょうかリンゴの歌を

二人で歌えばなおたのし

みんなで歌えばなおなおうれし

リンゴの気持を伝えよか

リンゴ可愛や可愛やリンゴ

 

 

並木(本名南郷庸−つね−子)さんは,心筋梗塞(こうそく)のため01年4月8日東京都渋谷区の自宅で死去した。79歳だった。並木さんは松竹歌劇団の出身で,1943(昭和18)年に「御代の春」で歌手デビューした。

並木さんには青森県のリンゴ対策協議会から感謝状(87年)や,長野県の市民団体から「リンゴの女王章」(88年)が贈られている。

なお並木さんの兄は戦死,また東京大空襲で母親を,終戦後の引き揚げ途中に父親を亡くしており,戦争は痛ましい記憶だった。並木さんは,(生前)終戦直後を振り返り「毎日,ひえイネ科の1年草で,草状はイネに似ており,実は黄色く細い粒,現在は鳥の飼料用として栽培されているや芋を混ぜた」飯を食べるだけ。リンゴってどんな味がしたんだろうと思い出しながら歌った」と語っていた(2001年4月9日『東京新聞』夕刊)。93年から日本歌手協会の副会長に就任していた。

 

 

☆ 参考文献

『昭和』第7巻−「廃墟からの出発」−(講談社)

『新版・日本流行歌史』−(社会思想社)

『大衆文化事典』−弘文堂

 

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