クリスチャン・クリエンは1983年2月7日にオーストリアのホーヘエンスで生まれた。1996年に初めてカートで成功を収めると、1998年にフォーミュラBMWジュニア・チャンピオンシップにステップアップを果たす。
翌1999年には4レースで勝利を挙げ、フォーミュラBMWジュニア・チャンピオンシップで総合4位になる。その後、フォーミュラー・ルノー・チャンピオンシップに移り、2002年にチャンピオンを獲得した。
クリエンは2003年にF3ユーロシリーズに転向、4勝を挙げる。またポールポジションも6度獲得、表彰台に上ること9回を数えた。その成績で総合2位の座を仕留め、経歴の中でも最大のステップアップを果たす。2004年にジャガーのレギュラードライバーに起用され、F1シートを獲得したのだ。
ジャガーのスポンサーだったレッドブルのおかげで、クリエンは2004年にF1デビューを果たし、ベルギーGPでは6位入賞、初のポイントを獲得した。F3から飛び級で参戦するドライバーにとって、最初の年は学習の年となる。期待は大きかったものの、その期待にそうことはできず、予選でもチームメイトの速さには太刀打ちできなかった。
2004年のシーズン中に撤退を表明したジャガー・レーシングをレッドブルが買収。クリエンはそのレッドブルで、F3000チャンピオンのビタントニオ・リウッツィとセカンドシートを争った。
開幕戦オーストラリアGPで、いきなり7位入賞を果たしたクリエンは、続くマレーシアGPでも8位に入賞。しかし、3戦目のバーレーンGPでは電気系トラブルに泣いた。4戦目からはリウッツィがシートを引き継いだが、第8戦カナダGPでレースシートに返り咲き、最終戦中国GPでは見事5位でフィニッシュしている。
2006年シーズンは、クリエンにとって忘れてしまいたい年となったことだろう。開幕戦バーレーンGPでは8位入賞と、スタートは上々の出来だった。しかし、その後ポイントを獲得するまでに実に10レースものブランクを要してしまったのだ。このあたりからクリエンとレッドブルの関係は、ストレスのたまるものとなってきていた。レッドブルは2007年のドライバーをクルサードとマーク・ウェバーに決定、クリエンにはチャンプカーのシートをオファーする。しかし、クリエンはそれを拒否、イタリアGP後にレッドブルはクリエンに代えてロバート・ドーンボスをレースドライバーに据えた。
シーズン最終戦となったブラジルGPに姿を見せたクリエンは、Honda Racing F1とスパイカーF1と交渉を続けていた。その後、Honda Racing F1がクリエンをテスト兼リザーブドライバーに起用することを発表。クリエンは目標としていた“F1残留”を実現でき、さらに大手自動車メーカーであるHondaのテストドライバーの座を手にすることができたのだった。
しかし、レース復帰を目指すクリエンはHonda Racing F1とのテストドライバー契約を1年と見なす。Honda Racing F1の計らいでシーズン中盤にはスパイカーのテストに参加、シーズン終了後には新生フォース・インディアで再びテスト走行している。
フォース・インディアのレースシート獲得を目指したクリエンだが、最後のシートを手にしたのはジャンカルロ・フィジケラだった。また、元チームメイトのリウッツィは同チームのテストドライバーという役目を授かっている。
その能力を証明したクリエンは2008年、BMWザウバーのテスト兼リザーブドライバーとして活動する。